シェアハウスの共同キッチンで、毎晩誰かが「あ、ごめん、起きた?」と声をかけてくる
2026年08月29日
去年の冬、私は東京・世田谷のシェアハウスに引っ越した。二人一室の部屋をシェアするタイプの物件で、キッチンと浴室、トイレが共同。家賃は都心のワンルームより安かったので、最初は「ラッキー」って思ってた。
問題は、205号室だった。
物件を紹介されたとき、不動産担当者は「205は現在空室で、今月末に入居者さんが決まります」と言っていた。引っ越して一週間は、確かに205のドアは閉まったままだった。鍵穴から音も聞こえない。完全な空き部屋。
引っ越して10日目の夜、私は2時頃に喉が乾いてキッチンに立った。冷蔵庫から水を出そうとした瞬間、背後から声が聞こえた。
「あ、ごめん、起きた?」
振り返ると、205のドアのすぐ横に、私が立ったばかりのキッチンカウンターがあった。声の方向は205側だった。でもドアは閉まったまま。ノブも回っていない。
「え、あ、大丈夫です」
そう答えた瞬間、静かになった。私は「誰か入ったのか」と思い、205のドアの隙間を覗き込んだ。暗くて何も見えない。でも、足音がした。フローリングを歩く、軽やかな足音。それが階段の方へ消えていく。
次の日、大家さんに「205に入居者さんは決まりましたか」と聞いたら、「いや、まだです。契約が伸びてて」と言われた。
その夜もまた、3時頃にキッチンに立った。今度は声が聞こえなかった。代わりに、205のドアの下から、薄暗い光が漏れているのが見えた。
「大家さん、205の電気がついてますよ」
大家さんは「ありえないな。鍵は僕が持っている」と言いながら、205のドアの鍵穴を覗き込んだ。そして、顔を青くして言った。
「……鍵、掛かってる。誰も入ってないよ」
でも光は消えなかった。
翌朝、大家さんが205のドアをこじ開けたとき、部屋には誰もいなかった。でも、キッチンにあった私のコップが、205の床に置かれていた。
大家さんは「もう、この物件やめませんか」と言った。
私は「引っ越す」と答えた。
でも、引っ越す前夜、まだそのキッチンに立ったとき、再び声が聞こえた。
「あ、ごめん、起きた?」
今度は、私の耳のすぐ横で。
振り返らなかった。振り返ったら、また205のドアの隙間から光が漏れているのが、目尻でわかった。
そのコップは、今も私の新しい部屋のキッチンにある。底に、指紋が一つ、付いたまま。