新居に引っ越して一週間になった。 二階建ての一戸建て物件、駅まで十二分、家賃は相場より三千五百円も安い。理由は明白だ。築四十三年。 大家さんは「古さを味とでも称すべきか」と笑って言ったが、入居前の調査では特に大きな不備は見つからなかった。「壁紙が少し剥げている程度よ」 そう云われただけだ。

最初の三日は慣れに費やした。段ボールを片付け、配線を整え、冷蔵庫の中身を決める。 四日目の夜、眠りにつく前にふと聞こえた。

カッ、カッと。 何かが硬いものを削るような音。壁の向こうから、まるで何者かが壁紙を爪で引っ掻いているような細く乾いた音が。

「隣人の高齢者だからしょうがないよな」 そう自分に言い聞かせた。壁は薄くてお互いの生活が見透かされるほどだ。 ただし、この物件は角部屋である。左右と背面の外側に壁があるだけで、隣接するのは道路しか無かった。

五日目も同じ音がした。今度はもっと長く、カシャカシャと砂を敷く音のように聞こえた。 「また、うるさいな」 ベッドから起き上がり、指で壁を叩いた。「もう止めてよ!」 その瞬間、音は完全に止んだ。 すると一瞬後、壁の反対側から低い声のような何かが戻ってきた。「……うるせえな」 言葉だった。だがはっきりとは理解できず、ただ息吹のように私の頬に吹きかけた。

六日目の朝、職場の同僚に電話で相談した。 「最近、引っ越した物件が少し変だよ」 「えっ?何が?」 「壁の中から声がする。爪を引っ掻く音とかさ」 電話の向こうから数秒沈黙が続いた後、相手が小声で言った。「……あのマンションはな、過去に二つの事故があったらしい。入居者の男が壁の内側で遺体で見つかったことがあったんだよね」 「冗談でしょう?」 「本当だ。警察も確認して死因は放置死だってさ。で、このマンションの住民ってさ、『まだ誰も来ていないの』という表現を使うんだって。壁の中のお客を指すらしいよ」

電話を切り、部屋に戻ると壁には何の変化もない。ただ一つのものが気になった。 部屋の東側、ベッドの頭枕を置く位置の高さに小さな穴がある。目立たない程度に小さく、黒い奥へと続く筒状だ。 近づいて覗いてみた。

暗い。 そしてその中で小さな光が点滅している。赤く、ゆっくりと。時計なら1秒に一度だが、もっと遅かった、おそらく30秒に一度か50秒に一度のような間隔で。 何かの電源インジケーターなのか、あるいは生体センサーか。

私は思わず指で穴を押し返したが、それは完全に塞がれていた。つまり外から穴が開けられたのではなく、内部からの何かが壁を突き破った結果だったと理解した。

七日目。 また同じ音がした。今回は私が準備していた。録音用のマイクを壁に押し当てた。「何の音?」そう問いかけた後、録音を再生してみたら……

静寂。 ただし最後の数秒に人の呼吸のような音があった。まるで壁の中で誰かが私と全く同じ距離で息をしていたかのように感じた。

そして今日。 昨夜のことだ。目覚めた時には壁の中から音が止んでいた代わりに、何かが壁の内側ではなく部屋の中にいることを知った。 空気は冷えていた。窓を閉めていた筈だが開いていたのかもしれない、と感じるくらい涼しい空気を肌で感じただろうか。

朝起きるとベッドの横に小さな手形がくぎっていた。 濡れたままのものではなく完全に乾いて灰白色の手形が三つだ。壁と床の境目から私の布団の中へと引きずられた軌跡の様に並んでいた。

私は今、その壁に顔を近づけている。 穴の中に耳を押し当てて耳すますと。 また声がした。「……もう出さない」