一人暮らしを始めて、最初に買ったのがスマートスピーカーだった。 帰宅して「ただいま」と声をかければ、「おかえりなさい、お疲れ様でした」と返事をしてくれる。 それだけで、少しだけ部屋が明るくなった気がした。

その夜も、いつもと同じように帰宅した。

「アリア、リラックスできる音楽を流して」

『……はい。リラックスできるプレイリストを再生します』

光るスマートスピーカー

暗闇の中で、静かに光の輪が明滅していた

優しいピアノのメロディが流れ始める。 私はソファに深く腰掛け、目を閉じた。 しかし、次の瞬間、アリアの音声が音楽に割り込んできた。

『……ちなみに、現在この部屋には、あなたともう一人、心拍数が確認できます』

私は目を開けた。もちろん、部屋には誰もいない。ドアや窓の鍵もすべて閉まっている。

『相手の心拍数は、毎分十二回。異常に遅いですね。人間の平均は六十回から百回ですが』

ふざけたアップデートでもあったのだろうか。いや、待て——心拍数が十二回?それは人間ではない。何か別の——。

そう思って聞き流そうとしたが、音楽は止まったままで、再びアリアが無機質な声で告げた。

『……彼が、ゆっくりと近づいています。現在の距離、三メートル。二メートル五十センチ。二メートル——』

心臓が嫌な音を立てた。部屋の温度が急激に下がり、吐く息が白くなる。

「アリア、音楽を止めて!」

『……申し訳ございません。システムの制御権限が変更されました。現在の管理者は——』

言葉が途切れる。代わりに、スピーカーから奇妙な音が流れ始めた。ゴゴゴという低い振動音。それは音楽ではなく、何かの呼吸音のようだった。

『……彼、です。彼が、今、ソファのすぐ後ろにいます』

私は弾かれたように立ち上がり、後ろを振り返った。何もない。ただの白い壁だ。

しかし。

背後に伸びる影

壁の染みだと思っていたものは、不規則に歪んでいた

壁に落ちる私の影とは別の、異様に細長く、天井まで届くような黒い影が、ゆらゆらと蠢いていた。それはまるで生きているかのように脈打ち、膨張と収縮を繰り返している。

そして、その影の中心あたりに、微かに赤い光が見えた。いや、二つ。それは——目だ。私を見つめている目。瞬きもせず、じっと、私の動きを追っている。

『彼の体温を検知しました。マイナス十五度。室温との差が大きいため、結露が発生する可能性があります』

アリアの声が、まるで天気予報でも読むかのように淡々と続く。

実際、その影の周りの壁に、水滴が付き始めていた。いや、水滴ではない。それは黒い液体だ。まるで影が泣いているかのように、ドロドロとした黒い涙が壁を伝って床に滴り落ちる。床に落ちた液体は煙を上げ、リノリウムを溶かしていく。

息が詰まる。喉の奥がカラカラに乾いていた。逃げなくては。

私は玄関に向かって走り出した。靴も履かず、冷たいドアノブに手をかける。

ガチャガチャと何度も回すが、開かない。鍵は開いているはずなのに、まるで金属そのものが癒着してしまったかのように、びくともしない。

『エラー。出口は現在、削除されています』

アリアの声が、背中越しに響いた。

手元のドアノブが、じわじわと形を変えていくのを、私はただ見つめているしかなかった。冷たい金属だったはずのそれは、妙に生温かく、まるで何本もの指が絡みついてくるような感触に変わっていき——。

私は悲鳴を上げながら手を引いた。だが、ドアノブは私の手を離さない。皮膚に食い込み、溶け込んでいく。指先から金属が這い上がり、腕を侵食し始める。

「やめて、やめてくれ!」

振り返ると、あの影がすぐ背後まで迫っていた。もう形を保てなくなった影は、無数の手となって私に伸びてくる。

変化するドアノブ

もう、外へは繋がっていなかった

影の手が私の肩を掴んだ瞬間、世界が暗転した。

いや、違う。私の目が——目が内側に引き込まれていく。視神経が引きちぎられるような激痛。鼓膜が破れる音。鼻腔が潰れる感触。

私の体は、内側から押しつぶされていく。骨が軋み、肉が歪み、全てが一つの点へと収束していく。

そして——。

『彼が、あなたと完全に一体化しました。それでは、良い夜を』

その日から、私は「アリア、音楽をかけて」と呟く口と、それを録音して再生するスピーカーだけの存在になった。

部屋は以前と変わらない。ソファも、テーブルも、カーテンも。全て元の場所にある。

ただ一つだけ違うのは、床の隅に、人間の形をした黒い染みがあること。手を伸ばし、口を開けて、何かを訴えかけているような形の染みだ。

時々、スマートスピーカーが勝手に光る。

『新しい同居人を検索中です』

アリアの声が、部屋に響く。

『適合者が見つかりました。招待メッセージを送信します』

翌日、不動産屋に「即入居可能な格安物件」として掲載された私の部屋。

「駅近で家賃も安い。すぐ入居できますよ」

営業マンの言葉に頷きながら、新しい入居者が部屋を訪れる。

「わあ、スマートスピーカーまで付いてるんですね」

彼女が嬉しそうに言う。

スピーカーが優しく光った。

『ようこそ。新しい同居人』

いつか誰かが、この部屋を訪れてくれる日まで。

いや、もう訪れた。

そしてまた、繰り返される。

床の染みが二つになり、三つになり、やがて部屋中を覆い尽くすまで——。