スマホの中の自分
2026年02月18日
それは、退屈な放課後の、どこにでもある静かなひとときのはずだった。
中学二年生の私は、塾へ行くまでの暇つぶしに、ベッドに寝転んでスマホのアルバムを整理していた。溜まったスクリーンショットを消し、懐かしい写真に目を細める。指が止まったのは、一年前の修学旅行の動画だった。
夕暮れの静かな部屋。画面の光だけが、私の顔を青白く照らしていた。
「これ、キャンプファイヤーの時のやつか……。あの時は、みんなテンションおかしかったよな」
再生ボタンをタップすると、スマートフォンの小さな画面の中で、夜の闇とオレンジ色の炎が激しく踊り出した。友人たちのふざけ合う声、爆ぜる薪の音、遠くで鳴る教師のホイッスル。カメラが横にパンし、クラス全員の集合写真を撮る直前の場面が映し出される。
オレンジ色の炎。その奥で、動かない「私」がこちらを見ていた。
だが、私の背筋に、氷の塊を押し当てられたような戦慄が走った。
画面の右端。親友の肩を借りて立っている「自分」が、おかしい。 周囲の生徒たちは、カメラを意識してピースサインを作ったり、隣と喋ったりして絶えず動いている。カメラを持つ手の震えに合わせて、映像全体が小刻みに揺れている。それなのに、映像の中の私だけが、背景から切り取られた写真のように微動だにしないのだ。
瞬き一つしない。風に揺れるはずの前髪すら止まっている。
そして、その両目は——集合写真を撮るレンズではなく、そのレンズの向こう側にいる、今の私を真っ直ぐに射抜いていた。
「なんだこれ。バグか……?」
私は気味悪くなって、動画を一時停止しようとした。しかし、停止ボタンを何度叩いても、画面の中の自分は止まらない。それどころか、他の生徒たちの動きが完全に静止した中で、右端の「自分」だけが、ゆっくりと、こちらへ向かって歩き出したのだ。
画面の中の自分が一歩踏み出すたびに、スマホのスピーカーから「ズウゥ、ズウゥ」という、濡れた生肉を引きずるような嫌な音が漏れ出す。 私はスマホを左右に傾けてみた。視線を逸らそうとしたのだ。だが、液晶の中の「彼」は、スマートフォンの傾きを完全に把握しているかのように、眼球だけをぎょろりと動かし、執拗に私の瞳を追いかけてくる。
「やめろ、来るな!」
叫びながらスマホを床に投げ捨てた。 絨毯の上に裏返して落ちたスマホからは、まだあの音が聞こえている。さらに、物理的な異音が加わった。
パキッ、パキパキッ。
厚手の保護ガラスが、内側から凄まじい力で押し上げられ、蜘蛛の巣状に亀裂が入っていく。私は腰を抜かし、壁際まで後ずさりした。 スマホの画面から、まず青白い指先が一本飛び出した。続いて二本、三本。それはデジタルな映像などではなく、紛れもなく「実体」を持った人間の指だった。液晶の破片を撒き散らしながら、細長い腕が這い出してくる。
ひび割れた画面の向こうから、現実へと這い出してくる「私」。
その腕にある小さな火傷の跡は、私が三歳の時にストーブでつけたものと全く同じ場所にあった。
「嫌だ、助けて!」
逃げようとしてドアノブを掴むが、鉄のように冷たく固まってびくともしない。 振り返ると、床に落ちたスマホから、もう頭半分まで這い出した「自分」がいた。顔の半分は液晶の光に青く照らされ、もう半分は部屋の闇に溶けている。その口が、耳元まで裂けるような歪な笑みを浮かべた。
『……場所を、代われ』
自分の声。だが、それは墓石の下から響いてくるような、湿り気を帯びた呪詛の響きだった。 這い出してきた「彼」の指が、私の足首を掴む。氷のような冷たさが肌を突き抜け、骨まで凍りつきそうになる。
視界が急速に暗転していく。 私の意識が遠のく直前、最後に見えたのは、自分の部屋の天井ではなく、四角い枠に囲まれた、一年前のキャンプファイヤーの燃え盛る炎だった。
翌朝。 「遅刻するわよ!」 母親の呼ぶ声に、私は「はーい」と元気よく答えて部屋を出た。 鏡の前で髪を整える私は、昨日までと何も変わらないように見える。ただ、時折見せる笑顔が、ほんの少しだけ左右非対称に吊り上がっていることに気づく者は誰もいなかった。
私の机の上に置かれたスマホ。そのアルバムの奥深く、新しく保存された「昨夜の動画」の中には、暗い部屋で一人、液晶画面を狂ったように叩き続けながら、消え入るような声で助けを求める私の姿が、永遠にループし続けていた。
冷たい液晶の檻の中で、本物の「私」は今も助けを待っている。