築30年のアパート、非常階段に夜中に足音がする
2026年08月22日
一昨年、東京・世田谷の築30年物件に引っ越した。
一見すると古くさいだけのアパートだった。廊下の電気が頻繁に切れる、水道管が軋む、大家さんが「まあ、そんなもんだよ」と笑って済ますような場所だ。
引っ越して二週間目のある夜、私は23時過ぎに洗濯物を部屋干しのために部屋に戻ってきた。
その時、はじめて耳にした。
「ドス……ドス……ドス……」
非常階段から、するすると上がってくる足音だった。
「深夜に階段を昇ってくるなんて、変な奴がいるな」
そう思い、私はドアチェーンをかけたまま非常階段のドアの隙間から外を覗いた。
廊下は真っ暗で、非常階段の出口の赤い非常灯だけが、ぼんやりと光っている。
足音は、ちょうど私の部屋の真下、二階の非常階段の出口で止まった。
「……?」
何も見えない。暗い。
するとまた、足音が始まった。今度はゆっくりと、一階へ下りていく音だ。
「あ、行った」
そう安心した瞬間、私の部屋のドアの向こうから、別の足音が聞こえた。
二階から三階へ、上がっていく音。
私の部屋は三階だ。
「……?」
足音は私の部屋のドアの前で、ぴたりと止まった。
そして、一瞬、沈黙があった。
その沈黙のあと、足音はまたゆっくりと、四階へ上がっていく。
「……」
私はドアの隙間から外を覗いたが、誰もいない。廊下は完全に空だった。
次の日、大家さんに「昨夜、深夜に非常階段を上がってくる足音がしました」と話すと、彼は少し顔色を変えて言った。
「ああ、あの物件ね。前の入居者さんも、同じことを言ってたよ」
「同じことを? それって、つまり……」
「うーん、まあ、古い建物だから仕方ないよね」
彼はそれ以上、詳しくは話さなかった。
それから一週間後、私はまた同じ経験をすることになる。
今回は、足音が私のドアの前で止まった後、ゆっくりと下りていくのではなく、私の部屋のドアのノブを、ゆっくりと回し始めた。
「カチ……カチ……カチ……」
ノブが、右へ、左へ、右へ。
チェーンをかけていたから大丈夫だった。
次の朝、大家さんに連絡すると、彼はまた同じ言葉を返した。
「まあ、古い建物だから仕方ないよね」
その時、私はふと気づいた。
彼は「前の入居者さんも」と言っていた。
では、今の入居者は誰だ?
私はその夜、荷物をまとめて、そのアパートを離れた。
引っ越した先の新しいアパートは、鉄筋コンクリートの新築マンションだ。
非常階段はない。
でも、昨夜、私はふと気づいた。
私の新しい部屋の廊下にも、夜中に足音がする。
「ドス……ドス……ドス……」
上から、下から。
そして、私の部屋のドアの前で、ぴたりと止まる。
ノブが、ゆっくりと回りはじめる。
「カチ……カチ……カチ……」