![非常階段](/assets/images/2026-08-15-stairwell-footsteps.svg)

一昨年、東京・世田谷の築30年物件に引っ越した。

一見すると古くさいだけのアパートだった。廊下の電気が頻繁に切れる、水道管が軋む、大家さんが「まあ、そんなもんだよ」と笑って済ますような場所だ。

引っ越して二週間目のある夜、私は23時過ぎに洗濯物を部屋干しのために部屋に戻ってきた。

その時、はじめて耳にした。

「ドス……ドス……ドス……」

非常階段から、するすると上がってくる足音だった。

「深夜に階段を昇ってくるなんて、変な奴がいるな」

そう思い、私はドアチェーンをかけたまま非常階段のドアの隙間から外を覗いた。

廊下は真っ暗で、非常階段の出口の赤い非常灯だけが、ぼんやりと光っている。

足音は、ちょうど私の部屋の真下、二階の非常階段の出口で止まった。

「……?」

何も見えない。暗い。

するとまた、足音が始まった。今度はゆっくりと、一階へ下りていく音だ。

「あ、行った」

そう安心した瞬間、私の部屋のドアの向こうから、別の足音が聞こえた。

二階から三階へ、上がっていく音。

私の部屋は三階だ。

「……?」

足音は私の部屋のドアの前で、ぴたりと止まった。

そして、一瞬、沈黙があった。

その沈黙のあと、足音はまたゆっくりと、四階へ上がっていく。

「……」

私はドアの隙間から外を覗いたが、誰もいない。廊下は完全に空だった。

次の日、大家さんに「昨夜、深夜に非常階段を上がってくる足音がしました」と話すと、彼は少し顔色を変えて言った。

「ああ、あの物件ね。前の入居者さんも、同じことを言ってたよ」

「同じことを? それって、つまり……」

「うーん、まあ、古い建物だから仕方ないよね」

彼はそれ以上、詳しくは話さなかった。

それから一週間後、私はまた同じ経験をすることになる。

今回は、足音が私のドアの前で止まった後、ゆっくりと下りていくのではなく、私の部屋のドアのノブを、ゆっくりと回し始めた。

「カチ……カチ……カチ……」

ノブが、右へ、左へ、右へ。

チェーンをかけていたから大丈夫だった。

次の朝、大家さんに連絡すると、彼はまた同じ言葉を返した。

「まあ、古い建物だから仕方ないよね」

その時、私はふと気づいた。

彼は「前の入居者さんも」と言っていた。

では、今の入居者は誰だ?

私はその夜、荷物をまとめて、そのアパートを離れた。

引っ越した先の新しいアパートは、鉄筋コンクリートの新築マンションだ。

非常階段はない。

でも、昨夜、私はふと気づいた。

私の新しい部屋の廊下にも、夜中に足音がする。

「ドス……ドス……ドス……」

上から、下から。

そして、私の部屋のドアの前で、ぴたりと止まる。

ノブが、ゆっくりと回りはじめる。

「カチ……カチ……カチ……」