「この家は私と妻、二人で暮らしています」

その一言から始まった話だ。

東京・世田谷の賃貸アパートを借りたばかりの男性が投稿した、ある不思議な体験報告である。物件は築三十年の木造二階建て。一階にコンビニがある一角で、「駅チカ・環境抜群」という触れ込みだった。

薄暗い廊下。数個の部屋の扉が閉じたまま、床には長い影が伸びている

深夜のアパートの廊下は、いつも誰かがいるような気配を漂わせている。

入居初日の夜のことだった。寝室にいた彼は、ふと異音を聴いた。「ゴッ…」という低い音で、まるで大きな生き物が寝返りを打つような響きだ。壁の向こう側から聞こえるのだが、隣人は深夜の時間帯には「静かです」という案内文が書かれていた。

三回目の夜に、今度は明らかに足音がした。「トントントン…」と規則正しい重量感のある音で、二階の彼の部屋はまさに一階の部屋の真上だったはずだ。しかし、管理会社からの資料を再び見直すと、「一階住人は退居済み」と明記されている。

第四日の夜、彼は我慢できず大家に連絡した。「二階の床から足音がします。お隣の住人の方は…」

「いえ、この家には二人暮らしていますよ」相手の声は淡々としていた。「私は毎晩一階で寝ていますから」

彼は愕然とした。大家が「寝ている」と言うのは理解できた。しかし「二階からの足音」を聞く相手は大家本人ではないはずだ。大家の部屋を一階とするなら、二階は空室である。

「いえ、この部屋の二階部分も『住んでいる状態』なんです。ただ、睡眠中です」

彼は問い詰めた。「睡眠中の住民とどうやって連絡を取るんですか?」

「毎朝、一階の階段昇り口付近から、『おはよう』という声が聞こえます。朝の挨拶です。特に問題はありません」

しかし問題だった。彼は毎日夜中に二階部分で足音を聞いていたのだ。大家に言われるまで、「この部屋の住人は妻と私の二人」としか気づいていなかった。そして、一階部分から「朝の挨拶」「食事の準備」「水の流れの音」まで聞こえるという説明は、すべて事実だった。

彼は契約書を読み返した。「四〇三号室:二階部分(全室貸与)」。しかし、部屋の配置図には「一階部分と見分けなく一つの空間」と記されている。つまり、物理的には同じ部屋のはずなのに、住人は二人いる。しかも片方は常に睡眠中。

彼の妻が言った。「もう一度大家に電話して。今夜も足音がするって」

彼は再度連絡した。「今宵も二階から足音が聞こえます」

「はい、毎晩です」

「じゃあ、朝の挨拶の声も一階から聴いていますか?」

「ええ、昨夜も『おはようございます』でしたよ。ただし…」相手の声に一瞬の空白が走った。「昨夜のは、声が少し違っていましたね。昨日までは妻のものでしたが……。ではまた、ごゆっくり」

電話を切って、彼は妻と顔を見合わせた。

彼らのアパートの二階に眠る住人について、誰も「今晩は誰が起きているのか」わからないのだ。


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