13階のエレベーターホール

実は自分の話だ。

東京・大田区の25階建てマンションに一人暮らしをしている。2019年の春に引っ越して、かれこれ5年になる。エレベーターは2台あって、朝のラッシュ時は少し待つが、夜ならほぼ即座に乗れる。13階に到着すると、チャイムが「チン」と鳴り、扉が開く。それ以上でもそれ以下でもない。

それが、先月の話だ。

深夜2時47分。仕事中に飲んだ缶コーヒーが効いて目が冴えていた。トイレに行きたかったので、リビングからエレベーターを呼んだ。ボタンを押して10秒ほど待った頃だろうか。

「チン」

13階の到着音。おかしいと思った。自分は21階に住んでいる。でも、エレベーターが間違えて13階で止まることくらい、以前にもあった。気にしない。

扉が開いた。

廊下は薄暗い。13階の廊下は普段、センサーライトでうっすらと照らされている。今日は違う。消えていた。

いや、消えていない。ただ、明かりの質が違う。センサーライトは白っぽい青みがかった光だけど、今のはもっと暗く、赤みがかった暖色だ。街灯の光が壁に反射しているのかと思った。

エレベーターの扉が開ききったまま、ずっと開いていた。

押しても閉じない。閉じるボタンを連打しても、無反応。

その時だった。

廊下の奥から、足音が聞こえた。

「コタ、コタ、コタ」

革靴の音だ。コンクリートの床を歩く、革靴の音。深夜2時過ぎに、13階で革靴を履いた人間が歩いている。

そして、エレベーターの扉と壁の隙間から、足が見えた。

黒い革靴。ピカピかに磨かれた革。白い靴下。ズボンの裾が靴の上部に、きれいに乗っている。ビジネス帰りのサラリーマンの足、とでも言うべきか。

ただ、おかしいのは、その足が「動かなかった」ことだ。

扉の隙間から見える足は、完全に静止していた。エレベーターに乗る気配もない。廊下の奥を見つめている。

見ている、先を。

自分の方を。

「チッ」という音と共に、エレベーターの扉が閉まった。

冷や汗が出た。心臓がバクバクする。スマホの画面を確認すると、2時51分。4分で、何かが起きたのか、何も起きなかったのか。

翌日、管理会社に電話した。「昨夜、エレベーターが13階で止まったままになっていました」って。

担当者は「あー、たまにありますよ。センサーの誤動作かな」って。

「13階の廊下の明かりが、普段と違っていたんです」って聞くと、相手は黙った。

「……13階の廊下には、明かりがありませんよ」

そう言われて、初めて気づいた。

13階の廊下には、明かりがない。センサーライトもない。街灯の光も届かない。真っ暗だ。

それなのに、昨夜は赤い明かりが、13階の廊下を照れていた。

その晩も、また深夜にトイレに行った。エレベーターを呼んだ。ボタンを押す手が一瞬、止まった。

「チン」

13階の到着音。

扉が開いた。

廊下は真っ暗だった。

何もなかった。

でも、扉が閉まる瞬間、隙間から見たのは、黒い革靴の先が、ほんの少しだけ動いたことだった。

自分は今、その13階の廊下に、何を見ていたのか。

考えたくない。でも、毎晩、エレベーターを呼ぶたびに、13階の到着音を待ってしまう。

いつか、扉が開く時が来るかもしれない。

そして今晩も、13階の廊下には、誰かが立っているのかもしれなかった。