未回収者の部屋
2026年07月21日
整理作業は午後三時すぎに始まった。
「廃業するから、十年分の書類を全部処分してほしい」
そう言われただけの退職者名簿が机の上に積まれていた。五十枚近い用紙、上段に社印、下段になぜか消しゴムで塗られた名前。誰かが意図的に名を伏せたのか、それとも「記録から抹消する」という作業そのものが名前を書き換えるほど強かったのか、私は判断がつかないまま読み始めた。
一枚目の書類の内容はこうなっていた。
退職者氏名: 山田太郎(塗抹)|登録番号 09847-A3 所属部署:第三営業部 在籍期間:昭和六十三年四月一日〜令和元年十一月十三日 退職事由:定年退社 最終取引先:不明(記録なし) —
「第三営業部」という部署は、二十年前に組織再編で廃止された。私は三十年前の新人として第三営業部に配属され、その名称も記憶のどこかに残っている。しかし山田太郎という人物の名前を私は知らない。同期名簿や電話帳にも見つからなかったし、取引先問い合わせの履歴も「不明」と記されている。
二枚目、三枚目も同様だった。「所属部署:記載なし」「最終住所:不明」——名前だけが涂抹されているのではなく、「その人を構成するすべてのデータが抹消状態」になる。名前を除いた情報すべてが空白。まるで、名前という最小限の文字だけを残して「人間を消去した」ようだった。
五枚目を開いた時に私は初めて胸騒ぎを感じた。
退職者氏名: 山田太郎(塗抹)|登録番号 09847-A3 所属部署:第四営業部 在籍期間:令和二年一月一日〜令和七年十月一日 退職事由:自己都合 最終取引先:東京・港区西三丁目(記録破棄済) —
二枚目と名前が同じなのに、「所属部署」「在籍期間」が変わっている。三十年前の昭和六十三年から令和まで。二十年分の空欄。これは一人の人間の名前ではないはずだ。あるいは——この会社は「同一人物」として扱っているのだろうか?
ページをめくるごとに違和感が増えていく。「最終住所:不明(確認不可)」「最終勤務地:確認不能」の欄が、四枚続いた後。次の一枚で私は呼吸を止めた。なぜならその書類には、私の名前と現在の住所——家——が「退職者氏名」「最終住所」として記されていたからだ。
「記録」には既に次の文字が並んでいたはずだ——。
退職者氏名: [私の氏名]|登録番号 10XXX-X9 所属部署:技術本部 在籍期間:平成二十八年四月一日〜令和八年六月三十日 退職事由:業務上理由による解約 最終取引先:記載なし(次回更新予定) —
「令和八年六月三十日」——つまり来年の今日、一月後。
胸が熱くなったのと同時に机の上に置いた名簿を閉じた。しかし目をつぶる前に見た数字は消えなかった。「令和八年六月」という日が画面外に残ったまま、私の視界に焼き付いていた。
その日の夕方、会社に戻る理由もなく出勤した。第四営業部のあった部屋——今はもう存在しない第四営業部——の入り口だけだった。廊下の先に扉があるかどうかも確認したが、「第三営業部」「第四営業部」は組織図から消えたあと、部屋の番号自体も変更され壁に跡形も残っていなかった。しかしその扉だけは確かにそこにあるようだったし、扉をこじ開けられる手応えを感じた。
引き出しの中からはまだ「未回収者の名簿」と書かれた一册が出てきた。中身はまだ埋まっていない空白のページだったが、最後の一行だけ既に文字で記述されていた——そして私に宛てたもので、署名欄に私の名前がすでにあった。
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