地下駐車場の怪異

これは知人の話だ。

彼が東京の某区に引越しをしたのは、去年の四月だった。三階建てのアパートの二階。地下に二十二台の駐車場があり、鍵付きの鉄製ゲートで管理されている。入居者用のキーパッドがあり、四桁の番号を入力しないとゲートは開かない。

「地下駐車場、狭いけど家賃安いから仕方ないよね」

そう言って彼は、一番奥の隅、壁に面したスペースに車を駐車した。入り口から一番遠い。防犯上好ましいと自分で選んだ場所だった。

問題が始まったのは、入居して二週間目のことだった。

深夜一時頃、彼は地下駐車場へゴミ出しに行った。帰ろうとしてゲートに手をかけた時、ふと後ろを振り返った。

駐車場の奥の方で、車のライトが一瞬点いたような気がした。

「ふーん、誰かの車の盗難対策の点滅ライトか」

そう思っただけだった。

翌日。彼は車を地下へ降りて運転席に座った。普段と何ら変わらない。エンジンがかかり、ラジオがつく。何も違和感はない。

しかし、車を動かそうとしてハンドルを切った瞬間、彼は気づいた。

駐車枠の線と、車のタイヤの位置が、いつもと違うのだ。

「えっ、ずれてる? 昨日の自分がちゃんと停めたっけ」

そう思って彼は、車から降りて確認した。確かに、駐車枠の白線から、タイヤが約三センチほど前にズレていた。

「そういえば、昨夜ゴミ出しに行った時、駐車場に誰かの足音がしたような…」

彼は思い出そうとしたが、足音があったかどうか定かではない。地下のコンクリート廊下は、誰かが歩けば必ず響く。それが誰の足音だったのか、自分だったのか、それとも——

三日目。

彼は故意に、駐車枠の真ん中にタイヤを合わせて、駐車した。写真も撮った。

深夜、彼は寝室で本を読んでいた。

ブッ、ブッ、ブッ

車の盗難対策の点滅ライトの光が、地下から上ってくる。

彼は本を置いて、地下へ降りていった。

駐車場は静かだ。蛍光灯が一つだけ点いて、残りは消えている。点いている蛍光灯の下、彼の車がそこにある。

タイヤの位置を測った。駐車枠の白線から、また三センチほど前にズレていた。

写真と比べてみた。同じだ。彼が駐車した時のまま。

でも、タイヤは三センチ前にズレている。

「誰かが動かしたのか」

彼はゲートのキーパッドを確認した。彼の番号を入力した痕跡はない。誰か別の番号で開いたという証拠もない。

四日目。

彼は地下に監視カメラを設置した。安物のWi-Fiカメラで、スマホで見られるタイプ。

五日目。

深夜二時。彼のスマホに通知が来た。

「動体検知」

彼はスマホの画面を見た。カメラの映像には、地下駐車場の彼の車がある。静かだ。何も起きていない。

彼はほっとして、スマホを置いた。

五分後、また通知が来た。

「動体検知」

画面を見ると、彼の車の横に、黒い影がある。

人間の形をしている。背は低く、痩せている。服を着ているのか、裸なのか、よくわからない。顔はカメラの画質では確認できない。

彼は息を止めて、画面を見つめた。

影は、彼の車のドアに手をかけている。

ゆっくりと、ドアを開けようとしている。

でも、車は施錠されている。鍵穴に何かを差し込もうとしている。

影は、キーパッドの方へ向きを変えた。四桁の番号を、一つずつ押している。

ピ、ピ、ピ、ピ

キーパッドのLEDが、一つずつ光って、消えていく。

彼はスマホを机の上に落とした。

影が车の横から離れた。駐車場を後にした。廊下の奥へ、足音が消えていく。

次の日、彼は警察へ届けた。

「地下駐車場で、車が勝手に動いて、監視カメラに人が写っていました」

警察官はメモを取り、言った。

「ゲートの記録を確認します。カメラのデータもください」

一週間後、警察から連絡があった。

「ゲートの記録には、あなたの番号以外での開封履歴はありません」

「では、あの影は——」

「カメラのデータは確認しました。動体検知のタイミングで、駐車場に何か映っていたのは事実です。でも、それが誰なのかはわかりません」

彼は帰宅し、地下駐車場へ行った。

彼の車は、いつもの場所に駐車されていた。

駐車枠の白線から、三センチ前にズレている。

彼は車に乗り込んだ。エンジンがかかった。

そして気づいた。

助手席の足元に、何かが落ちている。

コンクリートの粉だ。駐車枠の白線を削ったような、白い粉が、ところどころに散らばっている。

彼は白線に近づいて、指で触ってみた。

線の一部が、削られている。

三センチ分だけ。

彼は自分の車のタイヤの位置を、白線に合わせた。

ぴったりだった。

誰かが、彼の車を三センチ前にずらしたのではない。

彼が駐車した位置を、三センチ前に修正したのだ。

それは、駐車枠の白線に、彼のタイヤが乗るように。

でも、彼はそのことを、覚えていない。

彼は毎日、同じ場所に駐車している。

でも、毎晩、車が三センチ前にずれる。

それは、彼が眠っている間に、誰かが車を動かしたからではない。

それは、彼自身が、眠ったまま車を運転しているからかもしれない。

彼は、もう地下駐車場へ車を置かないことにした。

でも、引っ越しても、同じことが起きた。

彼の車が、毎晩、わずかに前にずれる。

駐車枠の白線に、ぴったりと乗るように。


追記:この話をした知人は、車屋に点検に行った。

「タイヤの位置がいつもずれるって言ったら、ABSセンサーの異常かもね。勝手に車が動くこと、ないことはない」

でも、ABSセンサーが勝手に車を動かすことは、物理的にあり得ない。

知人は今でも、毎晩、自分の車がどこに停まっているかを確認している。