地下駐車場で駐車した車が、毎晩三センチずつずれていた
2026年08月15日
これは知人の話だ。
彼が東京の某区に引越しをしたのは、去年の四月だった。三階建てのアパートの二階。地下に二十二台の駐車場があり、鍵付きの鉄製ゲートで管理されている。入居者用のキーパッドがあり、四桁の番号を入力しないとゲートは開かない。
「地下駐車場、狭いけど家賃安いから仕方ないよね」
そう言って彼は、一番奥の隅、壁に面したスペースに車を駐車した。入り口から一番遠い。防犯上好ましいと自分で選んだ場所だった。
問題が始まったのは、入居して二週間目のことだった。
深夜一時頃、彼は地下駐車場へゴミ出しに行った。帰ろうとしてゲートに手をかけた時、ふと後ろを振り返った。
駐車場の奥の方で、車のライトが一瞬点いたような気がした。
「ふーん、誰かの車の盗難対策の点滅ライトか」
そう思っただけだった。
翌日。彼は車を地下へ降りて運転席に座った。普段と何ら変わらない。エンジンがかかり、ラジオがつく。何も違和感はない。
しかし、車を動かそうとしてハンドルを切った瞬間、彼は気づいた。
駐車枠の線と、車のタイヤの位置が、いつもと違うのだ。
「えっ、ずれてる? 昨日の自分がちゃんと停めたっけ」
そう思って彼は、車から降りて確認した。確かに、駐車枠の白線から、タイヤが約三センチほど前にズレていた。
「そういえば、昨夜ゴミ出しに行った時、駐車場に誰かの足音がしたような…」
彼は思い出そうとしたが、足音があったかどうか定かではない。地下のコンクリート廊下は、誰かが歩けば必ず響く。それが誰の足音だったのか、自分だったのか、それとも——
三日目。
彼は故意に、駐車枠の真ん中にタイヤを合わせて、駐車した。写真も撮った。
深夜、彼は寝室で本を読んでいた。
ブッ、ブッ、ブッ
車の盗難対策の点滅ライトの光が、地下から上ってくる。
彼は本を置いて、地下へ降りていった。
駐車場は静かだ。蛍光灯が一つだけ点いて、残りは消えている。点いている蛍光灯の下、彼の車がそこにある。
タイヤの位置を測った。駐車枠の白線から、また三センチほど前にズレていた。
写真と比べてみた。同じだ。彼が駐車した時のまま。
でも、タイヤは三センチ前にズレている。
「誰かが動かしたのか」
彼はゲートのキーパッドを確認した。彼の番号を入力した痕跡はない。誰か別の番号で開いたという証拠もない。
四日目。
彼は地下に監視カメラを設置した。安物のWi-Fiカメラで、スマホで見られるタイプ。
五日目。
深夜二時。彼のスマホに通知が来た。
「動体検知」
彼はスマホの画面を見た。カメラの映像には、地下駐車場の彼の車がある。静かだ。何も起きていない。
彼はほっとして、スマホを置いた。
五分後、また通知が来た。
「動体検知」
画面を見ると、彼の車の横に、黒い影がある。
人間の形をしている。背は低く、痩せている。服を着ているのか、裸なのか、よくわからない。顔はカメラの画質では確認できない。
彼は息を止めて、画面を見つめた。
影は、彼の車のドアに手をかけている。
ゆっくりと、ドアを開けようとしている。
でも、車は施錠されている。鍵穴に何かを差し込もうとしている。
影は、キーパッドの方へ向きを変えた。四桁の番号を、一つずつ押している。
ピ、ピ、ピ、ピ
キーパッドのLEDが、一つずつ光って、消えていく。
彼はスマホを机の上に落とした。
影が车の横から離れた。駐車場を後にした。廊下の奥へ、足音が消えていく。
次の日、彼は警察へ届けた。
「地下駐車場で、車が勝手に動いて、監視カメラに人が写っていました」
警察官はメモを取り、言った。
「ゲートの記録を確認します。カメラのデータもください」
一週間後、警察から連絡があった。
「ゲートの記録には、あなたの番号以外での開封履歴はありません」
「では、あの影は——」
「カメラのデータは確認しました。動体検知のタイミングで、駐車場に何か映っていたのは事実です。でも、それが誰なのかはわかりません」
彼は帰宅し、地下駐車場へ行った。
彼の車は、いつもの場所に駐車されていた。
駐車枠の白線から、三センチ前にズレている。
彼は車に乗り込んだ。エンジンがかかった。
そして気づいた。
助手席の足元に、何かが落ちている。
コンクリートの粉だ。駐車枠の白線を削ったような、白い粉が、ところどころに散らばっている。
彼は白線に近づいて、指で触ってみた。
線の一部が、削られている。
三センチ分だけ。
彼は自分の車のタイヤの位置を、白線に合わせた。
ぴったりだった。
誰かが、彼の車を三センチ前にずらしたのではない。
彼が駐車した位置を、三センチ前に修正したのだ。
それは、駐車枠の白線に、彼のタイヤが乗るように。
でも、彼はそのことを、覚えていない。
彼は毎日、同じ場所に駐車している。
でも、毎晩、車が三センチ前にずれる。
それは、彼が眠っている間に、誰かが車を動かしたからではない。
それは、彼自身が、眠ったまま車を運転しているからかもしれない。
彼は、もう地下駐車場へ車を置かないことにした。
でも、引っ越しても、同じことが起きた。
彼の車が、毎晩、わずかに前にずれる。
駐車枠の白線に、ぴったりと乗るように。
追記:この話をした知人は、車屋に点検に行った。
「タイヤの位置がいつもずれるって言ったら、ABSセンサーの異常かもね。勝手に車が動くこと、ないことはない」
でも、ABSセンサーが勝手に車を動かすことは、物理的にあり得ない。
知人は今でも、毎晩、自分の車がどこに停まっているかを確認している。