老女が両手で何かを包み込むように抱えている。指先の間から白く柔らかいものが零れ落ちている。背景は濃紺の闇。手自体は淡い紫で、わずかに歪んでいる

私は昨年の冬から、この施設に入っている。

名前を書き忘れた。名前にこだわる段階じゃなくなってから、どれくらい経つだろう。介護士の人が「おはようございます、〇〇さん」って呼んでくれるが、〇〇の部分が毎回違うので、もう諦めた。私が誰かである必要はどこにもない——そう思えた日から、私は何も困らなくなった。

問題は、记忆の方だ。

入ってすぐの頃は、毎晩同じ夢を見ていた。母の手。小さく、荒々しく、でも温かいその手を、私は片手のひらの上で揺さぶられているように感じた。赤ちゃんだったか、それとも私自身が、その母親だったのか——もはや思い出せない。ただ、「これが夢じゃない」と思ったきっかけは、思いのほか具体的なものだった。

二月のある日の午後、施設の小規模売店でお焼きを買った。五十円玉を二枚置く。おばあちゃんが「ありがとうございます」って渡してくれたのは、小顔の若い女性だった。多分四十代くらいか。その女性が袋に入れる瞬間、指が私の手の甲に少し触れた。

そこで——

脳内で何かがカチリと音を立てて、何かの蓋が開いたような感覚になった。目が覚める時がある。しかしそれは起きているのに起こる起き方だ。光が倒れるみたいに、私の周りは白く崩れ落ちた。

私は今、この施設の喫茶室の一隅に座っている。目の前のテーブルには、写真が一枚置いてある。私が自分で持ってきたのか、どこかで拾ったのか——覚えていない。しかし写真の中から「知っている」ものが二つだけあった。

一つは、写っている母親の顔。私が昨日食べたおでんの味が分かるように、私はこの女の人の母を、すでに knowing している。それは暗喩じゃなかった。その女性在私の胸の奥で泣いている音が、物理的な重さとして残っていた。もう一つは、彼女の手のしわだ。右手の人差指の付け根にある、半月型の深い皺——私の右手にもある。同じ場所。同じ形。

その女性の夫か子供かが写真の端に写っているとしたら、私は彼らに会ったことがあるはずだ。昨日の晩、寝ている間に誰かが私の掌に物を置いた。小さくて丸いものだ。目も閉じたまま、手を開いてみた——白い骨のようなものだった。指の関節の一つ? それとも胎児の足首? 分からないままゴミ箱に捨てたが、捨てる手が「なぜこれを捨てるのか」を私に問いかけてきた。その手が私のHandじゃなかった時、初めて疑った。

私は他人の記憶を食べているのではないか。

認知症と医者は言う。しかし、食べる側があるとして——その食器が私自身でありながら、同時に誰かの子宮であるとしたら? 昨晩、寝台で見上げると天井に何かがぶら下がっている。糸で吊るされた、人間の手の形をした袋のようだ。風も動機もないのに、それが揺れていた。摇れる向こう側に見えたのは、私の母ではない他の母亲の顔だった。その人が言っていた——「あなたはまだ返していないわ」。

何を? 誰に?

今朝、介護士の人が私に言った。「〇〇さん、昨日、夜中に立ち歩きませんでしたか? 廊下で「私を産んでください」って……叫んでいて」。私は覚えていない。しかし喉が痛い。声帯が荒れている。その時、ふと卖店で买ったお焼きの袋の中から、もう一枚の写真が出てきた——私が十歳くらいの時に母亲に掌を見せながら、「これであなたの将来が分かるよ」って言っている写真だ。

母は二十年前に死んだはずだ。しかしこの写真の中では、彼女が笑っている。そしてその時感じなかった不快感が、今、目玉の奥を引き下げていた。その笑顔——私が見た他の母亲の写真と同じ表情をしている。顔立ちも手も声も違うのに、すべてが「母を演じて」いた。

なぜか分かる。私は母ではなくなった。母に取ってかわられた。そしてその代わり、別の誰かの母になろうとしている——その過程で、私の記憶は既に他人のものに書き換えられている。昨日食べたおでんの味が分からないのも、このせいだ。あの味は私のものじゃなく、食事が強要する記憶の残滓なんだ。

今朝、施設を出ていいことになった。退院じゃなくて、他の病院への移送だ。なぜか分かった——私を「母」が必要としている人がどこかにいる。その人のために、私は母という役割を引き受けている。拒んでもいい。しかし拒んだらどうなるかは知っている。先程まで天井にぶら下がっていた袋の中身が、私の掌の中に戻るだろう。

今、手が震えている。この手は誰の? 書いた文字——私の筆跡だけど、私じゃない人が書こうとした形に収束していく。最後にもう一つだけ。もしあなたが今、この文章を読んでいて、「自分の母の手」を思い浮かべたなら——その手のしわを、よく見てほしい。右手の人差指の付け根に、半月型の皱はないか?

ありもしたら——もう遅い。私は既にあなたのものを食べている。


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