田舎の自販機から手が伸びてきた
2026年09月12日
田舎の自販機から手が伸びてきた
去年の夏、実家の用事で久しぶりに地方の実へ帰った。実家は県境に近い、コンビニすら徒歩圏にないような場所だ。国道から一本入ったところにも、唯一の自販機がぽつんと立っていた。青いボディに、冷たい缶コーヒーの広告がはがれかけている。
その自販機は、夜になると微弱な光を放つ。近所の人にとっては頼りになる存在だった。私が幼い頃は、夜中にふと水が飲みたくなって外に出ても、自販機の光が安心感を与えてくれた。
その夏のある夜、父と二人で深夜の国道を歩いていた。父の車は壊れており、隣町の修理工場まで歩いて向かうしかなかった。国道沿いには家が一軒もなく、両側は田んぼが広がっている。虫の声だけがうるさいほど聞こえる。
「あ、自販機がある。コーヒーでも買って行こうか」
父がそう言って、自販機の前で止まった。父は財布から五百円玉を取り出し、投入口に差し込んだ。レバーを押す。
そして、音が変わった。
普通なら「ドボン」という、飲み物が落下する音がするはずだ。だが、聞こえた音は違っていた。湿った、何かが地面に叩きつけられるような、重たい音だった。
父が顔を立て直す。
「あ、出た」
父が受け取り口を開けた瞬間、父の表情が変わった。
「……おかしいな。缶が一つしか出てこない。二本買ったはずなのに」
受け取り口には、確かに一本の缶コーヒーがあった。父は首をかしげてレバーをもう一度押した。何も出ない。
「おかしいな。もう一回押したはずなのに」
私も不気味なものを感じ、受け取り口をのぞき込んだ。暗い隙間の奥には、缶が一つ、横たわっている。それだけだ。
その時だった。
受け取り口の奥から、何かが動いたのが見えた。
手が、伸びてきている。
指先が受け取り口の縁に、そっと触れた。指は細長く、白く、関節が不自然に曲がっている。自販機の中——つまり、飲み物が並んでいるはずのガラスの向こう側から、手が伸びてきた。
父も私も、声が出なかった。
その手は、缶を掴もうとしたのではなく、ただ、受け取り口の縁に、そっと、触れていた。まるで、外の世界が気になっているかのように。
「……逃げよう」
父がそう言って、走り出した。私も後を追った。国道を、ただ走った。背後から、湿った音が聞こえた。ドボン、ドボン、ドボン。自販機のレバーが、次々と押される音だった。
その夜、私たちは修理工場には辿り着けなかった。国道の途中、父が足を踏み外して転んだ。膝を大きく擦りむき、血が滲んだ。
父は立ち上がろうともしなかった。ただ、自販機の方向を、見つめ続けた。
「ああ……」
父が小さく言った。
「あそこから、僕らを見ていたんだ」
次の日、自販機は壊れていた。ガラスが割れ、中の缶が散乱している。レバーは全部折れていた。
自販機の管理者に連絡が入れられたが、管理者は首をかしげていた。
「自販機は、先週まで正常に動いてましたよ。壊れる理由が分かりません」
そして、その自販機は、その後設置されなかった。代わりに、新しい自販機が、二十メートルほど離れた場所に設置された。
新しい自販機は、冷たい光を放つ。夜になると、国道を歩く人々の足元を、白く照らす。
私は、新しい自販機の方向には、決して足を進めない。