宅配ボックスの向こう側
2026年08月02日
東京都心から少し離れた団地の7階。引越し初日に配達人の姿を見たのは午後3時前だった。
「この配送、宅急便じゃないですね」
モニター画面に映ったのはユニフォームを着た男性だった。ヘルメットも帽子もなく、ただ黒いマスクをした顔がレンズの向こうで微笑んでいた。
「そちらは宅配ボックスにお預かりしますか?」
受話器越しの声は鈍く、何かが詰まったような質感で伝わってきた。契約時、管理会社の担当者が「最新型のビデオインターホン付き」と誇らしげに説明していたのを思い出す。画面の解像度はとても高く、向こう側の人物の肌荒れまで見えてしまうほどだった。
しかし今、モニターに映る男性は微笑まないまま、ただじっとカメラを見つめていた。
「すみません、今日は宅配ボックスにお願いします」
そう言ってボタンを押すと、インターホンは即座に切れた。モニター画面は黒くなることなく、代わりに写ったのは空の廊下だった。窓から差し込む夕日はオレンジ色に部屋を染めていく。
その頃まだ5時前だ。太陽の角度も時刻も矛盾していたはずなのに、画面内の世界は午後6時の光に包まれていた。
次の日の夜、インターホンが鳴ったのは10時過ぎだった。もう一度映ったのは同じ男性で、今回は両手をポケットに入れた姿勢だった。
「また宅配ボックスですか?」と尋ねると、彼は何も答えなかった。ただ首を片側に20度傾けるだけ。その角度は前日と同じだった。
3日目、モニター画面には見知らぬ部屋の映像が映っていた。床に散らばった段ボール箱の中腹から、人間が這い上がる姿が見えた。誰かが撮影したような視点で、ゆっくりと顔が上がってくる——それは私と全く同じ表情をしていた。
その夜、インターホンを通じて静かな声が聞こえた。
「引っ越しの続き、お手伝いしましょうか?」
画面の中の部屋は私が今住んでいる部屋と瓜二つだった。段ボール箱の中には私の衣類がまだ入ったままのものも混じっていた。そして部屋の隅で、黒いマスクをした人物が私の方へ手を振っているのが見えた。
翌朝、管理会社から連絡があった。「先日記事をしてくださった方ですが……この団地には7階に単身者向けの住人として、過去に3人の男性が入居されています。全員同じ時期に引越しされたそうです」
私はモニターを見つめたまま黙っていた。画面の向こう側の部屋はもう映らなかった。今ではただの真っ暗な空間が広がっているだけで、誰かの手が伸びてくる気配さえ感じることができない。