バス停の夜

実録。僕の友人、Kの話です。

Kは東京のIT企業に勤める30代半ばの男で、去年の夏に実家の田舎へUターンしました。実家は岐阜県の山奥、人口三千人ほどの集落。Kの祖父が亡くなり、家業の農家を継ぐためです。

Uターン当初は新鮮でした。朝は鳥の声に起き、夜は星がきれいで、東京では味わえない静けさ。ただ、一つ問題がありました。

終電後の交通手段がないことです。

Kが勤めているのは、最寄りの町までバスで一時間かかる場所。平日は朝の本数こそありますが、夕方は四時半、六時、それから十一時の一本だけ。十一時のバスに間に合わなければ、そのまま朝まで集落に留まるしかありません。

「まあ、夜外出することなんてないし」とKは当初気にしていませんでした。

それが、先月の話です。

Kは東京の同僚と夜遅くまでオンライン会議をしていました。終わってみると午前二時。PCを閉じて、ふと外を見ると、月明かりが集落を照らしています。

「あ、そうだ。父が昨日言ってたな、朝取る野菜があるのを忘れてた」

Kはジャケットを着て、家の裏口から畑へ出ました。十五分ほどで用は済み、自宅へ戻ろうとしたその時です。

バスのエンジン音が聞こえました。

Kは立ち止まりました。午前二時。終電は十一時です。

「工事の人かな」

そう思い、Kは家のポーチからその音を聞きました。確かにバスのエンジン音。でも、集落のバス停は道路から三百メートル離れています。そこからこんな近くに、バスが来るはずがありません。

Kはふと、集落の道路事情を思い出しました。

集落は山に囲まれていて、道は一本しかない。その道はループ状になっていて、バスの運転手からすれば、同じ場所をぐるっと回ってまた戻ってくるように見える。

「でも、あんな時間に……」

Kはまた畑へ戻ろうとしました。その時です。

二回目のバス音。

今度はもっと近くから。Kの家の真横を通っていきます。

Kはポーチから外を見ました。暗闇の中、ヘッドライトの光が家の壁に映っています。ゆっくり、ゆっくりと、バスが通り過ぎます。

窓から、人のシルエットが見えました。

Kは息を止めて、もう一度見ました。

窓の中には、何人かの人間の形。座っているのか、立っているのか、はっきりしません。ただ、明らかに「人」の形をしている。

そしてバスは、集落の奥へ消えていきました。

Kは震えながら、父の部屋へ飛び込みました。

「父さん、今バスが通ったよ!」

父はぼんやりとテレビを見ながら、こう答えました。

「ああ、そうか」

「あんな時間に!」

「あんな時間、じゃないよ。バスの時刻表、ちゃんと見てるか?」

Kはスマホでバスの時刻を確認しました。

十一時。

父は続けました。

「あのバス、実は五日間に一度しか走ってないんだ。今日がそれにあたった」

Kは納得がいかなかった。五日間に一度のバスが、午前二時に走るとしても、誰が乗るのか。

次の日、Kは集落の老人たちに聞きました。

「昨日の夜、バスに乗ってた人、見た?」

すると、一番若い八十歳の男性が、こう言いました。

「ああ、見たよ。窓から顔を出してたおじさんが、とても怖かったよ」

「どんな顔?」

「目だけ、大きく開いてて。口は動いてた。でも、声は聞こえなかった」

Kは背筋が凍るのを感じました。

「で、そのバスはどこへ行くんですか?」

老人はぼんやりと、山の方を指差しました。

「帰るんだ。ここへ」

その夜、Kは眠れませんでした。

そして、午前二時。

三回目のバス音。

今度は家の前を通り、止まりました。

Kはポーチからゆっくり外を見ました。バスのドアが開き、何人かの人が降りていきます。彼らは暗闇の中、Kの家の方を向いていました。

Kの父が、そっとポーチへ出てきました。

「父さん!」

Kは父を引っ張りました。

「帰ろう!」

父は静かに、こう言いました。

「今日は、僕も乗らないと」

Kは父の顔を見ました。父の目は、バスの方を向いています。

動いていません。

Kは父の手を強く握り、家の中へ引き戻しました。

外では、バスのエンジン音が再び走り始めました。

朝、Kは父を探しました。父の部屋は空いています。

「父さん!」

Kは叫びました。

すると、奥の部屋から父の声が。

「ああ、ごめん。ちょっと用事があって」

Kは安堵して奥へ向かいました。

父はいつもの椅子に座り、ぼんやりとテレビを見ています。

「父さん、昨夜何だったの?」

父はぼんやりと答えました。

「バスだよ」

「あのバス、何に乗ってるんですか?」

父はゆっくり、Kの方を向きました。

「帰る人達」

Kは父の目を見ました。

父の目は、大きく開いています。

口は動いていません。

でも、Kは父の声が聞こえました。

「明日も、来るよ」

それから三日後、Kは東京へ戻りました。

実家には父一人が残ると言いましたが、Kはもう戻れません。

昨日、父からLINEが来ました。

「バスの時刻表、見た?」

Kが確認すると、父が送ってきたのは、バスの時刻表の画像。

新しい時刻が追加されていました。

午前二時。

Kが父に電話をかけました。

出ませんでした。

次に父に会えたのは、一週間後でした。

父はいつものように、ぼんやりとテレビを見ていました。

「父さん、LINEのバスの話、何のこと?」

父はゆっくり、Kの方を向きました。

「明日、僕も乗るんだ」

Kは父の目を見ました。

目だけが、大きく開いています。

そして、父の口が動きました。

でも、声は聞こえませんでした。


Kは実家を去った後、父がそのバスに乗ったかどうか、誰も知りません。

ただ、Kが実家を去った朝、家の前にはバスのタイヤの跡が、集落の奥へ向かって、はっきりと残っていました。

そして、Kのスマホには、今でも父からのメッセージが届き続けています。

「バスが来た」

「バスが来た」

「バスが来た」


Kは今も東京で暮らしています。

でも、Kは夜、外に出ることを怖がっています。

だって、Kの住むマンションの前には、バス停がない。

でも、Kは昨夜、バスが通る音を聞いた。

午前二時。

Kは窓から外を見ました。

暗闇に、ヘッドライトの光が、Kの部屋の壁に映っていました。

ゆっくり、ゆっくりと、近づいてきます。