田舎のバス停で、終電後のバスが3回来た話
2026年09月10日
実録。僕の友人、Kの話です。
Kは東京のIT企業に勤める30代半ばの男で、去年の夏に実家の田舎へUターンしました。実家は岐阜県の山奥、人口三千人ほどの集落。Kの祖父が亡くなり、家業の農家を継ぐためです。
Uターン当初は新鮮でした。朝は鳥の声に起き、夜は星がきれいで、東京では味わえない静けさ。ただ、一つ問題がありました。
終電後の交通手段がないことです。
Kが勤めているのは、最寄りの町までバスで一時間かかる場所。平日は朝の本数こそありますが、夕方は四時半、六時、それから十一時の一本だけ。十一時のバスに間に合わなければ、そのまま朝まで集落に留まるしかありません。
「まあ、夜外出することなんてないし」とKは当初気にしていませんでした。
それが、先月の話です。
Kは東京の同僚と夜遅くまでオンライン会議をしていました。終わってみると午前二時。PCを閉じて、ふと外を見ると、月明かりが集落を照らしています。
「あ、そうだ。父が昨日言ってたな、朝取る野菜があるのを忘れてた」
Kはジャケットを着て、家の裏口から畑へ出ました。十五分ほどで用は済み、自宅へ戻ろうとしたその時です。
バスのエンジン音が聞こえました。
Kは立ち止まりました。午前二時。終電は十一時です。
「工事の人かな」
そう思い、Kは家のポーチからその音を聞きました。確かにバスのエンジン音。でも、集落のバス停は道路から三百メートル離れています。そこからこんな近くに、バスが来るはずがありません。
Kはふと、集落の道路事情を思い出しました。
集落は山に囲まれていて、道は一本しかない。その道はループ状になっていて、バスの運転手からすれば、同じ場所をぐるっと回ってまた戻ってくるように見える。
「でも、あんな時間に……」
Kはまた畑へ戻ろうとしました。その時です。
二回目のバス音。
今度はもっと近くから。Kの家の真横を通っていきます。
Kはポーチから外を見ました。暗闇の中、ヘッドライトの光が家の壁に映っています。ゆっくり、ゆっくりと、バスが通り過ぎます。
窓から、人のシルエットが見えました。
Kは息を止めて、もう一度見ました。
窓の中には、何人かの人間の形。座っているのか、立っているのか、はっきりしません。ただ、明らかに「人」の形をしている。
そしてバスは、集落の奥へ消えていきました。
Kは震えながら、父の部屋へ飛び込みました。
「父さん、今バスが通ったよ!」
父はぼんやりとテレビを見ながら、こう答えました。
「ああ、そうか」
「あんな時間に!」
「あんな時間、じゃないよ。バスの時刻表、ちゃんと見てるか?」
Kはスマホでバスの時刻を確認しました。
十一時。
父は続けました。
「あのバス、実は五日間に一度しか走ってないんだ。今日がそれにあたった」
Kは納得がいかなかった。五日間に一度のバスが、午前二時に走るとしても、誰が乗るのか。
次の日、Kは集落の老人たちに聞きました。
「昨日の夜、バスに乗ってた人、見た?」
すると、一番若い八十歳の男性が、こう言いました。
「ああ、見たよ。窓から顔を出してたおじさんが、とても怖かったよ」
「どんな顔?」
「目だけ、大きく開いてて。口は動いてた。でも、声は聞こえなかった」
Kは背筋が凍るのを感じました。
「で、そのバスはどこへ行くんですか?」
老人はぼんやりと、山の方を指差しました。
「帰るんだ。ここへ」
その夜、Kは眠れませんでした。
そして、午前二時。
三回目のバス音。
今度は家の前を通り、止まりました。
Kはポーチからゆっくり外を見ました。バスのドアが開き、何人かの人が降りていきます。彼らは暗闇の中、Kの家の方を向いていました。
Kの父が、そっとポーチへ出てきました。
「父さん!」
Kは父を引っ張りました。
「帰ろう!」
父は静かに、こう言いました。
「今日は、僕も乗らないと」
Kは父の顔を見ました。父の目は、バスの方を向いています。
動いていません。
Kは父の手を強く握り、家の中へ引き戻しました。
外では、バスのエンジン音が再び走り始めました。
朝、Kは父を探しました。父の部屋は空いています。
「父さん!」
Kは叫びました。
すると、奥の部屋から父の声が。
「ああ、ごめん。ちょっと用事があって」
Kは安堵して奥へ向かいました。
父はいつもの椅子に座り、ぼんやりとテレビを見ています。
「父さん、昨夜何だったの?」
父はぼんやりと答えました。
「バスだよ」
「あのバス、何に乗ってるんですか?」
父はゆっくり、Kの方を向きました。
「帰る人達」
Kは父の目を見ました。
父の目は、大きく開いています。
口は動いていません。
でも、Kは父の声が聞こえました。
「明日も、来るよ」
それから三日後、Kは東京へ戻りました。
実家には父一人が残ると言いましたが、Kはもう戻れません。
昨日、父からLINEが来ました。
「バスの時刻表、見た?」
Kが確認すると、父が送ってきたのは、バスの時刻表の画像。
新しい時刻が追加されていました。
午前二時。
Kが父に電話をかけました。
出ませんでした。
次に父に会えたのは、一週間後でした。
父はいつものように、ぼんやりとテレビを見ていました。
「父さん、LINEのバスの話、何のこと?」
父はゆっくり、Kの方を向きました。
「明日、僕も乗るんだ」
Kは父の目を見ました。
目だけが、大きく開いています。
そして、父の口が動きました。
でも、声は聞こえませんでした。
Kは実家を去った後、父がそのバスに乗ったかどうか、誰も知りません。
ただ、Kが実家を去った朝、家の前にはバスのタイヤの跡が、集落の奥へ向かって、はっきりと残っていました。
そして、Kのスマホには、今でも父からのメッセージが届き続けています。
「バスが来た」
「バスが来た」
「バスが来た」
Kは今も東京で暮らしています。
でも、Kは夜、外に出ることを怖がっています。
だって、Kの住むマンションの前には、バス停がない。
でも、Kは昨夜、バスが通る音を聞いた。
午前二時。
Kは窓から外を見ました。
暗闇に、ヘッドライトの光が、Kの部屋の壁に映っていました。
ゆっくり、ゆっくりと、近づいてきます。