仕事が落ち着いたので、一人で海に行くことにした。

目的地は、ガイドブックにも載っていないような小さな漁師町だった。知人から「静かでいい場所だ」と聞いて、地図アプリで調べたら本当に端の方にぽつりとある集落が出てきた。バスは一日三本。最終便は十七時。

着いたのは昼過ぎだった。

海沿いの宿に荷物を置き、浜辺を歩いた。砂は黒っぽく、湿っていた。波は静かで、沖の方まで見通せた。人の気配はほとんどなかった。

良い場所だと思った。

霧に包まれた漁村と浜辺

朝霧はいつまでも晴れなかった

宿の女将は六十代くらいの無口な人で、夕食の時間と朝食の時間だけを告げると、それ以外は姿を見せなかった。夕食は魚の煮付けと味噌汁で、それは素朴においしかった。

ただ、少し気になることがあった。

食堂の窓から浜辺が見えるのだが、そこに人が何人か立っているのだ。夕暮れ時に、ぼんやりと海の方を向いて。動かない。

「あの人たちは何をしているんですか」と私は女将に聞いた。

「海を見ているんですよ」と女将は答えた。

「それは見れば分かるんですが、何か……理由が?」

女将はお茶を注ぎながら少し間を置いた。

「昔からの習慣です」と彼女は言った。「この村では、海が何かを返してくれるのを、みんなで待つんです」

「何かって、何を?」

「それは人によります」

それ以上聞いても同じ答えが返ってくるだけだった。

翌朝も浜辺に人が立っていた。昨夜と同じ場所に。

もしかして同じ人たちが一晩中立っていたのだろうか、という考えが頭をかすめたが、ばかばかしいと思って打ち消した。

散歩がてら浜辺まで降りてみると、立っている人たちの近くを通ることになった。

全員が海を向いていた。誰一人として振り返らなかった。

声をかけようとしたが、なぜかできなかった。それは礼儀というより、もっと本能的な何かだった。邪魔をしてはいけないという感覚。

一番端にいた老人の背中を横目に見ながら、私は通り過ぎた。

その時、老人の手が目に入った。

指が、多かった。

六本、あったように見えた。

数え間違いだと思った。遠目だったし、光の加減もある。

二日目の夜、眠れなかった。

窓の外で波の音がしていた。それはずっと同じリズムを刻んでいたのだが、夜中の二時頃から、何かが変わった。波の音に混じって、別の音が聞こえ始めたのだ。

低く、規則的な、何か。

歌のようにも、唸り声のようにも聞こえた。

窓を少し開けると、浜辺に光があった。

海の中から、光っていた。

海底に揺れる光

光は青くも緑にも見えた。形は、定まらなかった

波紋のように広がる緑青色の輝きが、水面の下でゆっくり明滅していた。

それは美しかった。

それは恐ろしかった。

しばらく見ていると、浜辺に人影があることに気づいた。昼間と同じように、皆が海を向いて立っている。でも今は、腕が前に出ていた。まるで何かに手を差し伸べるように。

または、何かを迎え入れるように。

私は窓を閉めた。

三日目。

チェックアウトの日だった。

朝食を食べながら、私は女将に聞いた。

「昨夜の光は何ですか。海の中の」

女将はしばらく黙っていた。

「光が見えましたか」と彼女は言った。声のトーンが、少し変わった気がした。

「はい。きれいでしたが、不思議で」

「見えた人には、見えるんです」と女将は言った。「見えなかった人には、見えない。あなたには見えたんですね」

「それはどういう——」

「浜辺に行ってみてください。今朝は。行かないと損ですよ」

何故か、断れなかった。

荷物をまとめて宿を出て、浜辺に向かった。

朝霧がまだ残っていた。砂浜の手前で立ち止まり、しばらく海を見た。

波が静かに打ち寄せて、引いていく。また打ち寄せる。

気がつくと、私の隣に老人が立っていた。昨日、指が六本あるように見えた老人だ。

老人は海を見ていた。

「あなたも、待っているんですか」と私は聞いた。

老人は答えなかった。

「何を待っているんですか」

老人は少しの間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。

「海が、連れて行ったものを。返してくれるのを」

「何を連れて行ったんですか」

「この村の者は、いつか海に持っていかれる。昔からそうだ。名前を、あるいは顔を、あるいは声を。気づかないうちに少しずつ。でも待っていれば、いつか返ってくる」

私は老人の顔を正面から見た。

初めて、まともに見た。

顔の輪郭が、ぼやけていた。目鼻の位置はあるのに、それぞれの形が、少し違う。朝霧のせいかと思ったが、霧は胸より下にしか出ていなかった。

「あなたは、顔を持っていかれたんですか」と私は聞いた。

老人は返事をしなかった。

ただ、海を見ていた。

私もつられて海を見た。

波が静かだった。

光は見えなかった。でも、あの光がどこから来るのか、何となく分かる気がした。海の底にあるのではない。海の向こうにあるのだ。別の場所に。

バスの時間まで、あと三十分あった。

浜辺に立ち並ぶ人々の影

いつから、そこにいるのだろう

私はもう少しだけ海を見ていようと思った。

バスが来たら乗ればいい。

波が打ち寄せる。引いていく。

後ろで足音がした。宿の女将だった。彼女も海を見始めた。

「見えますか」と女将が聞いた。

「何が」と私は言った。

「向こうに、何かが」

私は目を細めて、水平線を見た。

何も見えなかった。

ただの海だった。

「バスの時間が」と私は言おうとした。

その言葉が、出てこなかった。

代わりに出てきたのは、空気だけだった。

私は口を閉じた。

波が来た。引いた。

まだ時間はある。

もう少し、待っていよう。

向こうから、何かが来る気がした。


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