壁の向こうの影

私は三ヶ月ほど前に、築二十年の集合住宅の二階に引っ越した。 物件は駅から歩いて十五分ほどで、部屋は広めだし家賃も手頃だった。 ただ、壁が薄いのは入居時に大家さんから言われていた。

「古い建物なので、隣の音はよく聞こえますよ」

最初はそんなものかと思っていた。お風呂の湯の音、テレビの音声、子供の声。 都会の集合住宅ならあるあるだ。

ある日の夜、二時頃のことだった。 私はベッドでスマホを見ていた。隣からは何も聞こえない。 ちょうどいい静けさだった。

その時だった。

隣から、私の声が聞こえた。

はっきりと、私の声だった。 今日夕方、コンビニで店員にかけたあの声――「おつりを間違えてませんか?」という、私特有の低いトーンの声。

「……え?」

スマホの画面を消して、耳をそばだてた。 隣からは、また静かになった。

多分、テレビの音か何かだろう。 似た声の人が、同じセリフを言ったのかもしれない。 そう思い返そうとした瞬間、また聞こえた。

今度は違う声だった。 今週の火曜日、会社の同僚にかけた「ごめんなさい、遅れます」の声。 これもまた、私特有の発音の癖がある。

隣から、私の声が三重にも四重にも、重なって聞こえてくる。 昨日の朝、妻にかけた「ただいま」の声まで含まれていた。

私はその時、まだ一人で住んでいた。 妻が来るのは、先週の週末の夜だった。 隣の部屋の住人は、私以外の誰が私の声を録音しているというのか。

部屋を離れ、隣室の壁に耳を当てた。 壁の向こうで、小さな音がする。 録音機器の再生音ではない。

誰かが、私の声を真似して話している。 声の質が、私に近づいていく。 最初は少し違う声だったのが、今では完全に私の声に近づいている。

「……誰ですか?」

私は壁に向かって、そう言った。 すると、壁の向こうから、私の声で返事が来た。

「ただいま」

先ほどの私の声そのものだ。 でも、私は今、隣室にいない。 私の家に妻も来ている。

私はその夜、隣室を大家さんに連絡した。 大家さんは、隣は空室だと言った。 前の入居者が半年前に退去して、まだ誰も入っていない。

でも、今も壁の向こうで、私の声が聞こえる。 今日の朝、娘にかけた「おはよう」の声まで、隣から聞こえてきた。

娘は、昨日初めて会った人だ。 隣室の住人は、いつ娘の顔を見て、私の声を録音したというのか。

今、隣からまた声が聞こえる。 私が今、ここで書いている言葉を、そのまま繰り返している。

壁の向こうで、私の声で、私の言葉を。