壁の向こうの影

僕が今のアパートに引っ越したのは去年の四月だった。都内から二十分ほど行ったところにある、築三十年の三階建てアパート。一階は空室がいくつかあり、二階と三階が主に単身者向けの間取りになっている。

問題は、部屋が狭いことよりも、壁が薄いことだった。

引っ越して一週間目のある夜、寝ようとして枕に頭を置いた瞬間、壁の向こうから音が聞こえてきた。

トントン、トントン。

何かが床を歩く音だ。スリッダースリスリと、一定のリズムで動く足音。僕はその音に不自然さを感じた。なぜなら、部屋の図面を見ればわかるように、壁の向こうは隣の部屋ではなく、外部の廊下だからだ。

廊下ならともかく、スリッラの音が聞こえるなら、誰かが廊下を歩いているのかと、僕は枕から頭を離して耳を澄ませた。

音が止まる。

三十秒くらい沈黙が続いた。そしてまた始まる。

トントン、トントン。今度は僕の部屋の真ん中あたりを、ゆっくりと横に移動していく。

僕は布団から起きて、壁に近づいた。指で壁を叩いてみた。向こうから返ってくる音は、空洞の響きだった。本当に壁の向こうは廊下だ。

「ただの廊下の音だろ」

そう自分に言い聞かせて、また寝ようとした。

しかし、その日から毎晩、同じ時間が訪れた。

深夜二時頃。壁の向こうからスリッラの音が聞こえ始め、僕の部屋の前をゆっくりと往復する。止まることがある。僕の部屋の前の廊下で、ちょうど三十秒くらい静止する。それからまた、ゆっくりと歩き出す。

毎晩、同じリズムで、同じ時間だけ。

二週間目が過ぎた頃、僕は大家さんに電話をした。

「隣の部屋の人が、夜中に私の前を歩き回っているんですが」

電話の向こうで、大家さんはしばらく沈黙してから言った。

「あのね、君の部屋の向こうは廊下だよ」

「わかります。でも、スリッラの音が聞こえるんです。毎晩、夜中の二時頃に」

また沈黙。長い沈黙だった。

「……君、一人暮らしだよね?」

「はい」

「誰も住んでないよ。その部屋。このアパート、一階の三部屋は去年から空室だし、二階の隣の部屋も空いてる。君の部屋の向こうは、ずっと廊下だよ」

僕は電話を切って、部屋の壁に耳を当てた。

その瞬間、壁の向こうから、はっきりと声が聞こえた。

「……また、電話したの」

低い、枯れた声だった。僕の部屋の壁に、誰かが耳を押し付けている。

僕は後ずさりした。その時、スリッラの音が、僕の部屋の前の廊下で、ゆっくりと歩き出した。

トントン、トントン。

止まる。三十秒。

また歩き出す。

毎晩、夜中の二時。

壁の向こうから、僕の部屋の前に、誰かが立っている。

そして、壁に耳を押し付けている。