この話は、私の後輩であるKの話だ。

Kは東京・世田谷のマンションで一人暮らしをしていた。二年前、転職を機に、もう少し家賃の安い物件を探して、目黒の古いアパートに引越した。

築四十年ほどの木造アパート。壁は薄く、隣人の生活音が漏れてくるのは仕方ないとKは思っていた。

「まあ、慣れるさ」

そう言って、Kは荷物を一部屋に詰め、新生活を始めた。

最初の三日間は、特に問題なかった。隣人の足音もたまに聞こえる程度。夜は静かで、Kは安心して眠れていた。

四日目のある夜、Kは就寝中だった。

咳き込む音で目が覚めた。

ゴホッ、ゴホッ、ゴホゴホッ……

壁の向こうから、はっきりと聞こえる。痰を絡ませたような、深い咳だ。Kは時計を見た。三時十七分。

「隣人が夜更かししてるんだな」

Kはそう思って、枕に頭を戻した。

しかし、咳は止まらない。

ゴホッ、ゴホッ……ゴホンッ。

まるで、壁の向こうに誰かが座り込んでいるかのように、間隔をあけて咳き込む。

Kは再び時計を見た。三時四十二分。

咳は、約二十五分続いた。

そして、ふっと止んだ。

その直後、壁をノックする音がした。

トン、トン、トン。

三回。規則正しい間隔で。

Kは枕に固まった。

「……誰だ?」

返事はない。静寂だけが、部屋に広がっていた。

Kは翌日、大家さんに電話をした。

「昨夜、隣の方からノックする音が聞こえたんですが」

大家さんは、少し沈黙してから、こう言った。

「えっ? 隣のお部屋は、もう空室ですよ。先月の末に退去されました。まだ新しい入居者さんは決まっていません」

Kの血が、凍った。

四日目の夜、隣人が咳をしていた。

でも、隣人はいなかった。

Kは、その夜以降、壁の向こうから音が聞こえるたびに、枕に固まるようになった。

ある夜、また咳き込む音がした。

ゴホッ、ゴホッ、ゴホゴホッ……

Kは震えながら、壁に耳を近づけた。

すると、咳の間合いに、何か違和感があることに気づいた。

咳き込む音が、実は隣からではない。

Kの部屋の、天井から聞こえていたのだ。

Kは、ゆっくりと天井を見上げた。

天井の隅に、小さな黒いシミが、広がっていた。

そして、そのシミの中心で、また咳き込む音がした。

ゴホッ。

今度は、壁の向こうでも、天井でもなかった。

Kの、すぐ背後から聞こえていた。

Kは振り返ろうとした。

しかし、首が動かない。

背後から、息遣いが聞こえた。

冷たい息が、Kの耳元に降りてきた。

「……引っ越してきたのね」

その声は、先月の末に退去した、前の入居者の声にそっくりだった。

Kは、それ以降、そのアパートには戻っていない。

新しい物件を見つけたが、Kは言う。

「壁の向こうに誰かがいる——そんな感覚が、今でも消えない」