引越し先の壁の向こうで、前の入居者が咳をしている
2026年08月28日
この話は、私の後輩であるKの話だ。
Kは東京・世田谷のマンションで一人暮らしをしていた。二年前、転職を機に、もう少し家賃の安い物件を探して、目黒の古いアパートに引越した。
築四十年ほどの木造アパート。壁は薄く、隣人の生活音が漏れてくるのは仕方ないとKは思っていた。
「まあ、慣れるさ」
そう言って、Kは荷物を一部屋に詰め、新生活を始めた。
最初の三日間は、特に問題なかった。隣人の足音もたまに聞こえる程度。夜は静かで、Kは安心して眠れていた。
四日目のある夜、Kは就寝中だった。
咳き込む音で目が覚めた。
ゴホッ、ゴホッ、ゴホゴホッ……
壁の向こうから、はっきりと聞こえる。痰を絡ませたような、深い咳だ。Kは時計を見た。三時十七分。
「隣人が夜更かししてるんだな」
Kはそう思って、枕に頭を戻した。
しかし、咳は止まらない。
ゴホッ、ゴホッ……ゴホンッ。
まるで、壁の向こうに誰かが座り込んでいるかのように、間隔をあけて咳き込む。
Kは再び時計を見た。三時四十二分。
咳は、約二十五分続いた。
そして、ふっと止んだ。
その直後、壁をノックする音がした。
トン、トン、トン。
三回。規則正しい間隔で。
Kは枕に固まった。
「……誰だ?」
返事はない。静寂だけが、部屋に広がっていた。
Kは翌日、大家さんに電話をした。
「昨夜、隣の方からノックする音が聞こえたんですが」
大家さんは、少し沈黙してから、こう言った。
「えっ? 隣のお部屋は、もう空室ですよ。先月の末に退去されました。まだ新しい入居者さんは決まっていません」
Kの血が、凍った。
四日目の夜、隣人が咳をしていた。
でも、隣人はいなかった。
Kは、その夜以降、壁の向こうから音が聞こえるたびに、枕に固まるようになった。
ある夜、また咳き込む音がした。
ゴホッ、ゴホッ、ゴホゴホッ……
Kは震えながら、壁に耳を近づけた。
すると、咳の間合いに、何か違和感があることに気づいた。
咳き込む音が、実は隣からではない。
Kの部屋の、天井から聞こえていたのだ。
Kは、ゆっくりと天井を見上げた。
天井の隅に、小さな黒いシミが、広がっていた。
そして、そのシミの中心で、また咳き込む音がした。
ゴホッ。
今度は、壁の向こうでも、天井でもなかった。
Kの、すぐ背後から聞こえていた。
Kは振り返ろうとした。
しかし、首が動かない。
背後から、息遣いが聞こえた。
冷たい息が、Kの耳元に降りてきた。
「……引っ越してきたのね」
その声は、先月の末に退去した、前の入居者の声にそっくりだった。
Kは、それ以降、そのアパートには戻っていない。
新しい物件を見つけたが、Kは言う。
「壁の向こうに誰かがいる——そんな感覚が、今でも消えない」