挿絵

実録。僕の隣人の話。

彼は三ヶ月ほど前、東京・世田谷の古いマンションに一人暮らしを始めた。築三十年。廊下の蛍光灯が二つに一つだけ点くような物件だった。

「最寄りの駅まで十五分、でも家賃は半分以下だった」

これが決め手だった。

二階の角部屋。右隣は空室で、左隣は elderly couple が住んでいる。大家さんから「右隣は次の入居者まで空くから、気にしないで」と言われていた。

一週間目のある夜、彼は寝室で本を読んでいた。

ゴソッ、ゴソッ

壁から音がした。

足音が、ゆっくりと、左から右へ移動していく。革靴の音ではない。裸足かスリッパのような、鈍い響き。

「隣の空室だから、何か片付けでもしてるのかな」

そう思って、彼はまた本に戻った。

二週間後。同じ時間帯にまた音がした。

ドカッ、ドカッ、ドカッ

今度は、階段を降りるような、下り坂の足音だった。彼の部屋は二階。壁の向こうは廊下で、さらにその向こうが階段室だ。

でも、音がした方向は、廊下とは逆だった。

左隣から、彼の部屋を通り越して、右の壁へと移動していく。

「……右隣に人がいるってこと?」

彼は大家さんに電話した。

「ええ? 右隣はまだ空室ですよ。鍵もかけてありますから」

大家さんは本当にそう言った。

「確認してみますけど」

その夜、彼は壁に耳を当てた。

静かだ。

でも、耳を近づけて五秒ほど経った頃——

タ、タ、タ

壁の向こうから、指で壁を叩く音がした。

三回。間隔は一定。

そして、止んだ。

彼は翌日、大家さんに再度連絡した。

「今晩も音がしました。本当に右隣は空室ですか?」

大家さんは少し黙ってから、言った。

「……一応、管理会社に確認しますね」

三日後、管理会社から連絡があった。

「右隣の部屋、入居者の契約が切れて、まだ片付けが完了していないんです。でも、誰も住んでいません」

彼は安心した。

その夜、彼は早めの時間に寝た。

二時頃、目を覚ました。

寝室が、妙に冷たい。

窓は閉めていたはずなのに、霜が張っている。

そして、壁から音がした。

ゴソッ、ゴソッ、ゴソッ

今度は、彼の部屋の真ん中で、足音が止まった。

壁に耳を近づけることもできなくなった。背中に寒気が走った。

ドカッ

また音がした。今度は、床から。

彼の部屋の床下から、足音が聞こえた。

彼は布団を被って、目を閉じた。

……

五分ほど経った頃、音が止んだ。

彼は朝まで寝られなかった。

翌日、彼は隣人に確認に行った。

左隣の elderly couple のおばあさんが、ドアを開けて言った。

「あのね、昨夜、すごく足音がしたわ」

「え、でも左隣——」

「うん。でも、私たちが住んでる部屋からは、しないわ」

「……」

「壁の向こうから、聞こえたの」

彼女は少し間を置いて、続けた。

「あなたの部屋の右隣から、足音が聞こえたの」

彼は黙って帰った。

その夜、彼は右隣の部屋の大家さんに直接電話した。

「右隣、本当に空室ですか?」

大家さんは、少し間を置いて、言った。

「……ええ、そうですよ」

その瞬間、彼の部屋の壁から、指で壁を叩く音がした。

三回。

タ、タ、タ

彼は電話を握りしめた。

大家さんの声が、遠くから聞こえた。

「……あ、でも」

「あの部屋、入居者の人が、たまに掃除で入ることがあるんですよ」

「……」

「昨日も掃除に行ったって、管理人から聞いてましたけど」

彼は、壁に耳を近づけた。

静かだ。

でも、耳を近づけて十秒ほど経った頃——

壁の向こうから、小さな声が聞こえた。

「……あなた、今、耳を近づけてますよね」

彼は電話を落とした。

その後、彼は引っ越した。

大家さんに理由を聞かれたので、彼は言った。

「隣人がうるさいです」

大家さんは、少し黙ってから、言った。

「……あの部屋、入居者がいないんですよ」

彼は黙って、その場を離れた。

新しい部屋で、彼は壁に耳を当てた。

静かだ。

彼は安心した。

でも、三日後、彼はその静かな壁から、小さな声が聞こえたことに気づいた。

「……あなた、今、耳を近づけてますよね」

彼は耳を離した。

その日から、壁から声が聞こえなくなった。

でも、彼は、壁に耳を近づけることができなくなった。