新築マンションの壁の向こうで、毎晩食事が作られている
2026年09月24日
知人の話なんだけど、今でも夜、壁を見ると背筋が凍るらしい。
知人の佐藤(30)が去年の秋に引っ越したのは、駅徒歩十五分の新築マンション。築ゼロ、入居者ゼロから始まった物件だ。設備は最新、防音も完璧——そんな広告の言葉が、どれほど嘘だったかを、佐藤は引っ越して二週間で知ることになる。
引っ越して三日目、佐藤は夜中、キッチンでお湯を沸かしていた。そのとき、壁の向こうから音が聞こえた。
カチャッ、カチャッ。
ガスコンロの火を起こす音。佐藤は手を止めた。隣は空室だ。管理会社に確認した。まだ売れていない、入居者ゼロの部屋だ。
「防音がいいから、隣のお宅の音が聞こえるのかも」
そう言われて、佐藤は納得した。でも、その夜も聞こえた。
カチャン、カチャン。
包丁で食材を切る音。シャカシャカと炒める音。そして、いつの間にか、食卓に椅子を引く音。
佐藤は、自分の壁に耳を当てた。
隣から、食事中の音。お椀を置く音。箸を置く音。そして、テレビの音声。ニュースの女性アナウンサーの声が、くぐもって聞こえる。
「隣が空室だって確認したはずだ」
佐藤は管理会社に電話した。
「ええ、隣の部屋は未売約です。入居者様はおりません」
「じゃあ、壁の向こうで食事が作られているのは?」
電話の向こうで、一瞬、沈黙があった。
「……防音性が高い物件なので、隣の部屋で食事をされている方の音が聞こえる、というご指摘は以前からございます。ご安心ください」
佐藤は電話を切った。でも、信じられなかった。壁に耳を当てると、まだ食事中の音が続いている。
翌日、佐藤は隣室のドアを開けてみた。鍵がかかっている。管理会社の人が鍵を開けてくれた。
部屋は、何もなかった。家具もない。カーテンもない。壁は白く、床は空だ。
「入居者様はおりませんね」
佐藤が「昨夜、壁の向こうで食事が聞こえた」と言うと、管理担当者は苦笑いして言った。
「古い物件じゃないんですから、そんなことありますよ。配管を通じて音が響くことは」
佐藤はその夜、寝た。そしてまた、聞こえた。
カチャン、カチャン。
包丁の音。そして、食卓の椅子を引く音。テレビの音声。
佐藤は、もう壁に耳を当てなかった。
翌朝、佐藤は隣室の廊下で、管理会社の担当者と会った。
「昨夜も聞こえました」
担当者は、少しだけ顔色を変えた。
「……隣室に、誰かが入られたかもしれませんね。確認します」
佐藤はその日、隣室の廊下を歩いた。ドアの隙間から、ふんわりとした食事の匂いがした。
炒めた玉ねぎと、鰹節の匂い。
佐藤は、その足で管理会社に戻った。
「隣室に、今、誰が入っていますか?」
担当者は、佐藤の顔を見た。
「え?」
「今、隣室で食事が作られています。炒めた玉ねぎと、鰹節の匂いがします」
担当者の顔が、白くなった。
「……確認します。今、確認します」
佐藤は、その場を立った。
その夜、佐藤は隣室の廊下を通りかかった。
ドアの下から、薄っすらとした光が漏れている。
そして、壁の向こうから、食事中の音。
佐藤は、自分の部屋に戻って、管理会社に電話した。
「隣室に、今、人がいます」
電話の向こうで、担当者が言った。
「……え?」
「ドアの下から光が漏れています。壁の向こうで、食事が作られています」
長い沈黙があった。
そして、担当者の声が、かすれたように聞こえた。
「……佐藤様、お聞きください。隣室には、誰も入っていません。確認しました。鍵もかかっていません。部屋も空です」
佐藤は、再び隣室の廊下に出た。
ドアの下から、光は漏れていた。
そして、壁の向こうから、食事中の音が聞こえた。
佐藤は、ドアに耳を当てた。
食事中の音は、まだ続いている。
でも、佐藤は気づいた。
食事中の音が、自分の部屋の壁の向こうから——佐藤の部屋の、隣ではない、もう一方の壁の向こうから聞こえてくることに。
佐藤が住んでいる部屋は、角部屋だ。壁の向こうには、もう一つの空室がある。
その壁の向こうで、食事が作られている。
佐藤は、その壁に耳を当てた。
そして、聞こえた。
食事中の音の向こうに、誰かが佐藤の名前を、かすかに呼んでいる音。