新築マンションの廊下

知人の話なんだけど、今でも夜、壁を見ると背筋が凍るらしい。

知人の佐藤(30)が去年の秋に引っ越したのは、駅徒歩十五分の新築マンション。築ゼロ、入居者ゼロから始まった物件だ。設備は最新、防音も完璧——そんな広告の言葉が、どれほど嘘だったかを、佐藤は引っ越して二週間で知ることになる。

引っ越して三日目、佐藤は夜中、キッチンでお湯を沸かしていた。そのとき、壁の向こうから音が聞こえた。

カチャッ、カチャッ。

ガスコンロの火を起こす音。佐藤は手を止めた。隣は空室だ。管理会社に確認した。まだ売れていない、入居者ゼロの部屋だ。

「防音がいいから、隣のお宅の音が聞こえるのかも」

そう言われて、佐藤は納得した。でも、その夜も聞こえた。

カチャン、カチャン。

包丁で食材を切る音。シャカシャカと炒める音。そして、いつの間にか、食卓に椅子を引く音。

佐藤は、自分の壁に耳を当てた。

隣から、食事中の音。お椀を置く音。箸を置く音。そして、テレビの音声。ニュースの女性アナウンサーの声が、くぐもって聞こえる。

「隣が空室だって確認したはずだ」

佐藤は管理会社に電話した。

「ええ、隣の部屋は未売約です。入居者様はおりません」

「じゃあ、壁の向こうで食事が作られているのは?」

電話の向こうで、一瞬、沈黙があった。

「……防音性が高い物件なので、隣の部屋で食事をされている方の音が聞こえる、というご指摘は以前からございます。ご安心ください」

佐藤は電話を切った。でも、信じられなかった。壁に耳を当てると、まだ食事中の音が続いている。

翌日、佐藤は隣室のドアを開けてみた。鍵がかかっている。管理会社の人が鍵を開けてくれた。

部屋は、何もなかった。家具もない。カーテンもない。壁は白く、床は空だ。

「入居者様はおりませんね」

佐藤が「昨夜、壁の向こうで食事が聞こえた」と言うと、管理担当者は苦笑いして言った。

「古い物件じゃないんですから、そんなことありますよ。配管を通じて音が響くことは」

佐藤はその夜、寝た。そしてまた、聞こえた。

カチャン、カチャン。

包丁の音。そして、食卓の椅子を引く音。テレビの音声。

佐藤は、もう壁に耳を当てなかった。

翌朝、佐藤は隣室の廊下で、管理会社の担当者と会った。

「昨夜も聞こえました」

担当者は、少しだけ顔色を変えた。

「……隣室に、誰かが入られたかもしれませんね。確認します」

佐藤はその日、隣室の廊下を歩いた。ドアの隙間から、ふんわりとした食事の匂いがした。

炒めた玉ねぎと、鰹節の匂い。

佐藤は、その足で管理会社に戻った。

「隣室に、今、誰が入っていますか?」

担当者は、佐藤の顔を見た。

「え?」

「今、隣室で食事が作られています。炒めた玉ねぎと、鰹節の匂いがします」

担当者の顔が、白くなった。

「……確認します。今、確認します」

佐藤は、その場を立った。

その夜、佐藤は隣室の廊下を通りかかった。

ドアの下から、薄っすらとした光が漏れている。

そして、壁の向こうから、食事中の音。

佐藤は、自分の部屋に戻って、管理会社に電話した。

「隣室に、今、人がいます」

電話の向こうで、担当者が言った。

「……え?」

「ドアの下から光が漏れています。壁の向こうで、食事が作られています」

長い沈黙があった。

そして、担当者の声が、かすれたように聞こえた。

「……佐藤様、お聞きください。隣室には、誰も入っていません。確認しました。鍵もかかっていません。部屋も空です」

佐藤は、再び隣室の廊下に出た。

ドアの下から、光は漏れていた。

そして、壁の向こうから、食事中の音が聞こえた。

佐藤は、ドアに耳を当てた。

食事中の音は、まだ続いている。

でも、佐藤は気づいた。

食事中の音が、自分の部屋の壁の向こうから——佐藤の部屋の、隣ではない、もう一方の壁の向こうから聞こえてくることに。

佐藤が住んでいる部屋は、角部屋だ。壁の向こうには、もう一つの空室がある。

その壁の向こうで、食事が作られている。

佐藤は、その壁に耳を当てた。

そして、聞こえた。

食事中の音の向こうに、誰かが佐藤の名前を、かすかに呼んでいる音。