実録: 壁の向こうに住んでいた人
2026年08月25日
2022年の冬、僕は東京・世田谷にある築42年のマンションに引越しした。 6階建ての階段-onlyで、エレベーターもない。家賃は都心にしては異常に安かった。
「築年数があって、壁が薄いのは仕方ないね」 不動産屋の担当はそう言って、鍵を渡してくれた。
最初の週は特になにもなかった。 隣人がテレビを見ている音、上階の足音が響く程度。 古いアパートなら誰でも同じだろうって、思い込んでいた。
問題が始まったのは引越しから三週間後だった。
夜中の2時頃、壁の向こうから「カリカリ」という音が聞こえてきた。 包丁で野菜を切っているような音。 リズムが正確すぎる。1秒おきに、規則正しく。
「隣で深夜の料理か…」 最初はそう思った。
しかし、その音は毎日同じ時刻に始まった。 毎日2時頃。毎日「カリカリ、カリカリ」というリズム。 3日間続いた。
ある日、壁に耳を近づけてみた。 音は確かに壁の向こうから来ている。 だが、隣の部屋は空室だった。
前入居者が退去して、4ヶ月も経っていた。 不動産屋に電話すると、「あ、そうですか。まだ決まってないですよ」
「じゃあ、その音は?」 「ええっと…ねえ、古い家なんですよ。配管の音とかありますよね」
その夜も2時、音は聞こえた。 カリカリ。カリカリ。カリカリ。
次の週から、音が変わった。 「カリカリ」が「カチカチ」に変わった。 爪でも何らかの硬いもので、壁を引っ掻く音。
10秒間隔で、上から下へ。 また上へ。 また下へ。
「誰かいる!」 僕は壁を叩いた。
返ってきたのは、壁の向こうからの、同じリズムの「カチカチ」だった。
翌日の朝、管理会社に通報した。 「隣人が壁を爪で引っ掻く音がします。誰か住んでいますか?」
担当が隣室を見て回ってきて、こう言った。 「誰もいませんよ。水道もガスも止まってるし」
「じゃあその音は!」 「…ねえ、このマンション、過去に自殺者が出てるんです。 6階の右端の部屋。入居者がいなくなっても、まだ住み続けてるかもしれない」
その夜、音は止んでいた。 代わりに聞こえてきたのは、呼吸音だった。 壁の向こうから、ゆっくりとした、湿った呼吸。
2時を回っても止まらない。
朝になって、僕は隣室のドアを開けた。 鍵がかかっていなかった。
部屋は埃だらけで、家具ひとつない。 壁には、爪で引っ掻いたような跡が、床から天井まで無数についていた。
そして、壁の中央あたりに、小さな穴が一つあいていた。 直径5mmくらい。
その穴から、僕の部屋側を覗き込んでみると—— 穴の向こうには、黒い目が、じっと僕を見返していた。
僕は飛び上がって部屋を出た。 その日以来、隣室には誰も入らない。 家賃が安い理由が、今ではよくわかる。
でも、たまに夜中に、壁の向こうから呼吸音が聞こえる。 もう、耳を近づけない。