知人の話だが、正直なところ最初は「うわ、また大家のせいか」と思っていた。

302号室の廊下

彼の名前(仮称)を田中とする。28歳、サラリーマン。今年4月、地方都市の中心部からバスで20分の新興団地に一人暮らしで引っ越してきた。

「集合住宅なんだから、多少の音は仕方ない」

そう割り切っていたのが、すべての過ちだった。

引っ越して3日目の夜のことだった。田中が寝ようとして寝室の電気を消した瞬間、壁の奥から音が聞こえた。

キチッ、キチッ

金属が擦れる音だ。古い建物は仕方ない、配管が熱で伸び縮みしているだけだ――そう自分に言い聞かせた。

しかし、その音は毎日同じ時間に聞こえるようになった。正確に深夜2時17分。

4日目以降は、擦れる音に加えて、別の音が混じるようになった。

ヒュー……ヒュー……

まるで誰かが、壁の向こうで深く息を吸っているような音だ。

「隣に人が住んでるんだから当然だろ」

田中はそう思って、耳を壁に近づけてみた。

静かだ。何も聞こえない。しかし壁の向こうの部屋からは、明らかに人の気配がする。

引っ越してきた際に大家から言われた言葉を、田中はようやく思い出した。

「301号と302号は、壁を一枚挟んでいて……元々一戸建てだったところを分割したんです。配管が共有になってるから、音は伝わりやすいですよ」

301号。隣の部屋だ。

田中は大家に連絡し、大家は「お隣の奥様はご高齢で、夜は早めに寝られるそうです」と答えた。

しかし、田中が301号のインターホンを押しても、誰も出ない。大家に「301号には誰が住んでいますか?」と尋ねても、大家は「今、確認してみます」と言ってその場を濁した。

5日目の夜、田中は録音アプリを起動し、壁にスマホを押し当てた。

深夜2時17分。

キチッ、キチッ

そして、壁の向こうから、はっきりと声が聞こえた。

「……田中さん、今、録音してるの?」

田中は背筋が凍るのを感じた。

301号には誰も住んでいない。大家もそう言った。

なのに、壁の向こうから、田中の名前を呼ぶ声が聞こえた。

次の日、田中は大家に直談判した。大家は顔色を変えて言った。

「301号……あの部屋は、去年の12月から空室です。前の入居者が、ある理由で出ていかれましたから」

「どんな理由ですか?」

大家は黙り込んだ。そして、小さく言った。

「前の入居者が、壁の向こうに人が住んでると……ずっと訴えていたんです。301号の壁の向こうに、人が住んでると」

田中は背筋が寒くなった。

301号は空室だ。壁の向こうには誰も住んでいないはずだ。

しかし、昨夜聞こえた声は、明らかに田中の名前を呼んでいた。

そして今朝、田中は気づいた。

壁の奥から、新しい音が聞こえ始めたのだ。

ドク、ドク、ドク

まるで、壁の向こうで、誰かが壁をノックしているような音だ。

正確に、田中の部屋の壁を。

今夜も2時17分、田中は壁に耳を当てた。

そして、壁の向こうから、小さく、しかしはっきりと声が聞こえた。

「……今夜も、聴いてくれますか?」

田中はそれ以来、302号の部屋から出ていない。

大家によると、田中の荷物はすべてそのまま残っているという。

301号の壁の向こうに、誰かが住んでいるのか。

それとも、壁の向こうには、もともと何もないのか。

それとも、田中自身が、すでに壁の向こう側に行ってしまったのか。

大家は、田中が去った302号を、まだ貸していないという。

「あの部屋は、音が……聞こえるんです」