「隣人の壁から、私の声」が聞こえた夜
2026年08月28日
録音した覚えのない声が、壁の向こうから流れていた
去年の冬、東京・世田谷の古いマンションに一人暮らしを始めた。
築四十年の木造二階建て。壁は薄く、隣人の足音やテレビの音声がよく響く物件だった。大家さんから「音漏れにはご注意ください」と言われたのも、入居当日のことだった。
問題は、入居から三週間ほど経った頃に出始めた。
毎晩、深夜二時過ぎになると、隣からボイスメモの再生音が聞こえてくるようになった。
最初は「ああ、隣で動画でも見ているのかな」と思った。スマホで動画を見ていると、小さな音ながら壁を通して漏れることがある。でも、おかしいことに、その音は動画のBGMでもバラエティの音声でもない。
自分の声だった。
三日前に録音したメモが、壁から流れていた
一番恐ろしかったのは、先週の火曜日のことだ。
その日、私は買い物袋を両手に抱えて帰宅し、ドアを開けると同時に隣から自分の声が聞こえてきた。
「明日の朝、九時にスーパーへ行く。卵と牛乳と——」
その瞬間、背筋が凍りついた。そのボイスメモは、私がその三日前に録音したものだ。
買い物リストを口で確認するために録音し、スマホのメモアプリに保存していた。それを削除した覚えもないし、誰かに見せることもなかった。
なのに、隣から再生されている。
隣人は七十代後半の老夫婦だと大家さんから聞いていた。スマホすら持っていないと言っていた。
「もしかして、壁に穴が……?」
私はそっと壁に耳を寄せた。すると、ボイスメモの音は突然止まり、その代わりに、壁の向こうからフガフガとした呼吸音が聞こえてきた。
それは、私が今、壁に耳をくっつけていることに気づいているかのような、静かな、しかし確かな呼吸音だった。
隣の部屋は空室だった
次の日、大家さんに電話した。
「隣の方、最近お変わりありませんか?」
電話の向こうで、大家さんはしばらく沈黙してから言った。
「……隣は、入居されていませんよ。半年前から空室です。」
その瞬間、電話を握りしめた手が冷たくなった。
隣が空室なら、ボイスメモはどこから聞こえてくるのか。呼吸音は誰のものなのか。
私はその夜、隣人の壁に耳を当てた。
ボイスメモは流れていなかった。
その代わり、壁の向こうから、かすかにだが、私の寝息が聞こえてきた。
今も聞こえる
今、この文章を書いているのも、深夜二時すぎだ。
隣からかすかに、ボイスレコーダーの再生音が聞こえる。それは今、私が今、声に出して読んでいる文章を、そのまま再生しているようだった。
隣は空室だ。大家さんもそう言った。
でも、壁の向こうで、誰かが私の言葉を、そっと、再生している。
もしあなたが一人暮らしをしていて、壁の向こうから自分の声が聞こえたら——。まずはスマホのボイスメモアプリを確認してみてください。録音の履歴に、あなたが録った覚えのないファイルが追加されていなかったか、どうか。